観音寺トップページ
お寺の概要
主な建物
一般公開
グリーンスターズ26の活動
観音寺椿
堀の浚渫
最近の話題
安国寺
観音寺廃寺

 芦浦観音寺は、聖徳太子が開基し、秦河勝(はたのかわかつ)が創建したと伝えられています。白雉二年(651)には、奈良法隆寺の覚盛が、この地にあった寺院を中興し、天平三年(731)には、28棟もの僧房か甍を並へていたという記録もあります。事実、境内からは7世紀後半の瓦片が出土していますから、白鳳時代(645〜710年)に寺院が存在したことは間違いありません。しかし、この寺院も次第に衰微し、いつの頃にか廃寺になってしまいました。現在、この寺院を便宜上「観音寺廃寺」と呼んでいます。

室町幕府と六角氏
 その後、室町時代中頃の応永十五年(1408)に、歓雅が天台宗の寺院として観音寺を中興しました。現在の観音寺は、この歓雅を初代住持としています。享徳二年(1453)9月23日には、八代将軍足利義政が「普勧寺末寺」である観音寺の寺領を安堵しています。観音寺の本寺とされる普勧寺は、初め京都にありましたが、のちには芦浦に寺基を移し、普勧寺の了忠が、観音寺の住持を兼任したと考えられます。
 明応元年(1492)12月23日、南近江を支配していた六角氏の臣、九里氏の手兵300人が、観音寺を襲撃し財物を略奪する事件が起こりました。前年に、十代将軍足利義稙(よしたね)が派遣した六角征討軍に、了忠が観音寺を陣所として提供したことに対する報復だったようてす。
 明応七年(1498)8月26日、了忠の跡を継いた四代清俊の代には、本山比叡山への参詣のために、六角氏から湖上通行証を交付されています。観音寺は将軍家から離れ、六角氏の支配下に入ったのです。そのためか、将軍家と縁の深かった先の了忠は、観音寺の住持系図から除かれています。その後、七代慶順の時代になると、六角氏との関わりは一層緊密になり、六角承禎 義治のもとで、観音寺は舟運に従事しています。

織田信長と観音寺
 永禄十一年(1568)9月、上洛を企てた織田信長は、近江に侵入し、六角承禎 義治父子を伊賀へ駆逐しました。これ以後、信長の支配下に入った観音寺は、浅井氏、本願寺一向一揆、比叡山、六角氏残党などによる反信長連合と対立することになりました。本山である比叡山に対して、観音寺かどのように対処したのかはよく分かりませんが、元亀二年(1571)9月の比叡山焼き討ちの際には、多数の仏像や仏画が観音寺に運ひ込まれたといいます。この伝承を裏付けるように、観音寺は「近江の正倉院」と呼はれるほど、多数の文化財を襲蔵しています。
 元亀三年(1572)に近隣の金森 三宅で一向一揆が蜂起した際には、観音寺は信長方に味方したようです。信長の臣、佐久間信盛が、芦浦村と境を接する欲賀(ほしか)村の一揆勢を攻撃するに当たって、観音寺の協力を求めた書状も残っています。
 天正八年(1580)11月に、信長は観音寺8世の賢珍に対し、寺領300石余と「下志那渡船」の権利を安堵しました。やはり信長も、六角氏と同様に観音寺の持つ舟運カを掌握しようとしていたようです。

豊臣秀吉と船奉行
 本能寺の変により信長が頓死した後の天正十年(1582)10月には、丹羽長秀が観音寺の寺領470石と「志那渡船」の権利を安堵しています。もちろん秀吉の了解のもとです。翌年4月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った秀吉は、改めて寺領480石を安堵するとともに、観音寺を近江の「蔵人地(直轄地)代官」に任命しました。また天正十九年(1591)には9代詮舜を初代の「船奉行」に任命しています。これ以後、観音寺の歴代は船奉行として琵琶湖の全船舶を掌握し、湖上交通を統括することになったのです。やがて観音寺は、その職務を執行するため、大津町の湖辺にも屋敷を構えるようになります。現在
 また、詮舜の事績として、焼き討ち後の比叡山の復興に尽力したことも忘れてはなりません。天正十一年(1583)、観音寺は諸国に散っていた僧侶を比叡山に呼び戻し、「堂社憎坊数ケ所」を再建し、復興が軌道にのるまでは自らの財力で比叡山を支えたのです。

江戸幕府と観音寺
 秀吉が没すると、慶長五年(1600)4月、五大老の徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元の連署で、観音寺の寺領420石余が安堵されました。この5カ月後の関ケ原の合戦では、家康と秀家・輝元は、東軍・西軍に分かれ雌雄を決するのですから、観音寺は難しい立場に立たされました。
 時の住持は十代朝賢です。朝賢は関ケ原の合戦に先だって行われた西軍(豊臣方)の大津城攻撃に湖水から参軍しましたが、合戦三日後の9月18日には家康の臣、村越直吉から矢橋疫船の準備を命じられています。大津城攻撃に参加した罪は問われなかったようです。家康もまた、観音寺の舟運力を必要としていたからでしょうか。
 翌6年5月18日には、江戸幕府は朝賢に対し、琵琶湖の船数の掌握を命じました。早速、朝賢は諸浦の猟船308艘、(ひらた)船1238艘について調査した「船数帳」を提出しています。ちなみに、延宝五年(1677)に、十三代朝舜が作成した「船数帳」には、計2977艘もの船舶が記録されています。
 こうして、戦国の動乱期をくぐり抜けてきた観音寺ですが、江戸幕府の基礎が固まり、官僚的支配機構が整備されるに伴い、観音寺は粛正される運命にありました。五代将軍綱吉の治世三十九年間に、死刑あるいは免職された代官は三十四名を数えるといいます。観音寺も、貞享二年(1685)朝舜の代に、船奉行と代官職を罷免されました。
 以後、観音寺住持は、江戸の東叡山寛永寺の明王院を兼住し、院家としての寺格を保つことに専念し、明治維新を迎えることになります。
 (夙川学院短期大学 高島幸次