幸せな生き方(’08.3.12)
教えてくれない真実(’08.1.24)
地球家族〜木の花ファミリーで感じたこと〜(’07.12.28)
人が人を知るということ(’07.12.3)
森に恩返し(’07.10.27)
ラマ僧の食事(’07.10.26)
全てはメッセージ(’07.9.19)
たゆむことなき選択の上で(’07.9.6)
平和は心の平安(’07.8.20)
リサイクルは資源の無駄使い!?('07.7.12)
誰にでも食べれるものじゃないと意味がない(’07.7.2)
野菜の保護者になる(’07.6.4)
趣味の領域(’07.4.14)
野菜は愛で育てる(’06.12.8)
土は生きている(’06.10.28)
本当の安心・安全(’06.10.19)
必要は満たされる(’06.10.10)
失敗から何を学ぶか?(’06.10.2)
自然農法とは?(’06.9.19)
異常気象にも意味あり(’06.8.25)
手抜きというよりありのままに(’06.7.10).
気遣う野菜たち(’06.4.27)
微生物の呼びかける植物(’06.1.14)
生きるー食べること?(’05.11.11)
農業の未来
野菜の陰陽
雑草は薬草?
草は救世主?
生野菜は危険?
有機の範囲
穴あき野菜
波動(野菜)
波動(人間)
有機肥料が危険?
草の利用
究極の農業とは?
不耕起のすすめ
便利?不便?
なぜ無肥料なのか?
微生物の活躍
現代人は常に何かに追われている。時間?それとも社会の理想的な人間像?いつも忙しそうにしていないと無能な人間だと思われるのが怖い。安定的な収入が続くかどうか常に不安?不慮の病気に事故。やっぱり人間関係?どうして人間は悪いほうばかりに気を取られてしまうのだろうか?最悪のケース好き動物=人間。私は人間の可能性は無限大だと思う。頭で思いつくすべてのことは「今」からできる。思いは現実を作り出す。社会や周りを変えたいなら、自分がまず変われば物凄い速さで宇宙がサポートしてくれる。宇宙には我々人間が考える以上のパワーで満ち溢れている。物凄い熱烈な応援団がいるのだ。いつも見守ってくれている。この応援パワーをさえぎるのは恐怖である。ネガティブな思いが応援団の声のボリュームを下げてしまう。ついには耳に栓をしてしまう。本当は人はなりたいものになれる。要は想像力だ。私は畑の草取りをしながらよく「くくっ」と笑うことがある。端から見ると奇妙だろう。実は私は農作業をしているとき違う世界にぶっ飛んでいることがよくある。思い出し笑いのひどい版だ。気付いたら草取りが終わっていたりして。なんとも楽しく不思議な時間だ。「こんなけやらなあかん」「まだこんなけしかできていない」こんなこと考えながらやっていたらただ辛いだけ。私は幸せはべったりと横に寄り添っているのだと思う。前でも後ろでもなく横に。近すぎて気付かれないことが多い。でも、横に振り向けばいつも満面の笑顔で笑っている。腕を組んで一緒に喜んでくれている。しかし、多くの人は後ろから追っている黒い影(恐怖)にはおびえながら気を配っているのに、最高の幸せ印のパートナーはいないものとしてしまう。幸せはどこか遠くにあって、苦労して掴み取るものだと思っている。だから、みんな苦労をする。本当は楽して楽しんで幸せになりたいんじゃないの?そうすればいいんですよ。楽しいと言っても自暴自棄に人を傷つけたりなど周りに迷惑をかけては本末転倒。まあ、誰か一人でも悲しい人が生まれるなら本当の幸せには気付くことは無いでしょうけど。92歳の絵本作家のターシャさんは言う。「今が1番幸せよ。」って。毎日。毎時間。毎秒。幸せって感じないなんてもったいない。こんなに美しい星に生まれてきて、こんなに素敵な人たちに囲まれて。文句なんかいったら、自分がかわいそう。種を蒔く喜び、芽が出る喜び、葉が大きく育って花のつぼみ開く喜び、花が散って種が実って静かに眠りにつく喜び。雪に大地が覆われてしまっても、命が途絶えたわけではない。ひたすら雪の下で春を喜ぶパーティーの準備をしているの。だから、雪も寒さも喜び。ひとつも無駄なものなんて無いの。そう、あなたが考えるすべてのこと、あなたがするすべてのことはいつも祝福されている。生まれてきた奇跡を充分に感じて、思う存分に生きる。それが、私達のお仕事なんですね。
私たちは毎日電気を使う。各部屋に1台ずつエアコン、テレビ、パソコン。一人に1台ずつ携帯電話。電化製品に囲まれて生きている。私もこの文章を打っているのも電気の力を借りているし、天然酵母のパンも電気の力で焼いている。1月22日に「六ヶ所村ラプソディー」という映画を見た。原子力発電は危険で今すぐにでも止めたほうがいいというのはずっと感じていた。なぜ、欧米各国が原子力産業から撤退しているのに、日本は妄信的に原子力を推進しようとしているのかがずっと謎だった。政府は言う「原子力は安全だ」「原子力は安価な未来のエネルギーだ」「日本のような資源の乏しい国には絶対必要な産業だ」・・・。はあ?原子力が安全なわけがない。プルトニウム大さじ一杯で日本人全滅しますよ。あんなに分厚い金属製の筒に保管して、何重にも防護服を着て扱わないといけないのに、安全!?原子力は安い?今までどんなけ建設コストがかかっているんだ。使用済核燃料の処理にいくらかかるんや。300m地下の地層に生めて処理するって言っているけど、そのコストはきちんと計上されているんやろうね。しかも、そんな危険なゴミを引き受けるところなんかどこもないのが現状です。資源が乏しいってばかり日本人は嘆いているが石油や天然ガスだけが資源と違うやろ。まず、無駄が多すぎるのが問題だと思う。休耕田がどんどん増えている。わたしは稲藁だってすごい資源になると思っている。あと、無尽蔵に広がるどこにでも生えている竹。でも、1番の資源はお互い助け合おうとするあたたかい人の心だと思う。六ヶ所村ではドえらいことが起きている。日本中の行き場を失った使用済核燃料が全て集まってくるのだ。しかも処理途中に出てくる廃棄物を空と海に垂れ流しにする予定なのだ。しかもしかも、なんと1日に垂れ流す廃棄物の量も濃度の制限がない。あまりの驚きだ。国民にはまったく知らされていない真実だ。工場が動き出したらどうだろうか?空や海は皆さんご存知のとおり地球上全ての生き物たちの大切な共有財産です。空も海のひとつです。繋がっています。放射能を含んだ廃棄物が垂れ流しになると、魚はまず食べれなくなるでしょう。大間のマグロは放射能汚染マグロに!!ホタテなどの養殖なんて大打撃。お米や野菜も風に乗って降り注ぐ放射能を避けることは出来ないでしょう。青森のおいしいりんごもさようなら。今年の3月中に本当に工場を稼動しようとしているんですよ。何とか止めないといけません。実を言うと工場も40年前の建築でかなり老朽化していて、方式や技術もかなり時代遅れなのです。このまま動かしたら・・・。しかしながら、何でそこまでしてプルサーマルを実現したいのでしょうか?800トンの使用済核燃料から粗悪な8トンのプルトニウムをどうしてそこまでして取り出したいのでしょうか?2兆円もかけたプロジェクトだから後に引けなくなっただけなのでしょうか?現実問題として原子力発電を続けていけばこれからもどんどんどうしようもない危険なゴミが出てきます。原子炉を動かせば動かすほど日本中行き場のなくなったゴミが溢れ、処理にお金がかかりまくります。私たち若い者たちの未来なんてどうでもいいのですか?核燃ゴミは280度の熱を出しています。100年後に200度に温度か下がるそうです。自然分解するまで2億年かかるといわれています。いったい、誰が安全に管理し続けられるでしょうか?もう、地球を捨てて宇宙にでも逃げ出すしかなくなりますよ(金持ち限定?)。私たちは毎日大量の電気を使っている。見もしないのに1日中つけっぱなしのテレビ。誰もいないのにつけっぱなしの電灯。寒い冬は家族でひとつの部屋でひとつのコタツで厚着をして同じテレビ番組を共有しましょう。たまにはテレビを切って家族でカードゲームしたり、いっぱい話し合いましょう。温かい家族にはエネルギーの無駄などありません。一人一人に出来ることはたくさんあります。今すぐ始めてください。今です。はい、スタート!!
売り言葉に買い言葉で一日が始まることが多い家族。人の悪いところや出来ていないところをついつい探して、相手が嫌がるような言葉をわざわざ捜して言ってしまう。そんな些細な後悔が積ってゆく。感謝の気持ちや挨拶さえ気まずくなってゆき、言葉をかけなくなってゆく。私の家族とて例外ではない。「相手の売り言葉をうまく流し笑顔を生む方法さえわかればいいのに。」とよく思うことがある。誰も争いたくない。仲良く・気持ち良く生きて生きたいのはみんな同じである。しかも、家族なんだから。木の花ファミリーでは血縁関係のない人も含めて40〜50人がひとつの家族として暮らしている。人数は日々変動し、徐々に増えてきているそうだ。今の社会は人間関係に疲れ心の病になる人が増えてきている。そういう人の駆け込み寺的の存在なのが木の花ファミリーである。同じ人間同士なのに分かり合えなくなってきているのはどうしてだろうか?周りの人を信頼できなくなっているのではないだろうか?「信じれるのは自分だけ。」確かに『心を割って話し合える友』っているのも死語になりつつあるのかもしれない。ありがたいことに私には突飛もない話が出来る仲間がたくさんいる。突飛もないというのは一般的な人から見てで、私はいたって大真面目である。木の花ファミリーでは『愛』『全てはひとつ』なんて言葉は当たり前に飛び交っている。私も青臭いと言われながらも『愛』『宇宙』『神』『全てはひとつ』の言葉をバンバン言いまくっている。本当のことを言うとこれら言葉を言わなくても当たり前になるのが一番いい。実はみんなの心の奥底に真理は眠っている。私たちが今ここに生きていることこそが真理なのである。「何のために生きているのか?」と世界中探しまくっている人や宗教に頼る人がいる。答えは初めっから自分の中にある。まずは自分の存在を認め、自分からやさしい言葉を周りの人にかけたり、困っている人に手を差し伸べたりしないと、何も自分に与えられることはない。木の花ファミリーではそんなことが頭で考えず自然に出来ているのだと思う。みんなの前で自分をさらけ出して充分見てもらい、みんなの意見を通してより自分を知る。新しく成長した自分に会えた感動とそれを喜んでくれる仲間たち。お互いがお互いに高めあって、どんどんよい波動へと引き上げてゆく。本当は家族もそうあるべきなのだろう。個人を尊重するあまり、人とのつながりが希薄になっている。お互いに高めあう気持ちよさを全く知らないで大人になっている人が多いのではないだろうか?分かり合える瞬間は言葉を越えている(言葉で話し合っているのだけど、心同士が会話しているような状態)、自分という枠や時間的感覚さえも取り払われている感じさえある。何かの音にハっと我に戻るときがある。木の花ファミリーでは5日間農作業を手伝ってきました。私は普段1人で農業をしているので、最初はなんだか少し違和感がありました。それはいつもは農作業の手順を自分ひとりで全て決めて実行してきたからだと思う。つまり、田畑の全てを把握して進めてきたので歯車のひとつになるのが窮屈だったのかもしれません。まあ、5日ほどでは何もわからないのでしょうね。家族とひとつになれば歯車的感覚もなくなり、全体としての喜びに変わるのだと思います。地球の生き物はみんな家族。出会う人も今生では出会わない人も木も小さな微生物や石ころも。必要だからこの世に生まれ存在し、最後は心が交わってひとつになってゆく。木の花ファミリーは地球家族の第一歩である。二歩・三歩とますます増えてくる事を期待し、私も口笛吹いてスキップ進んでゆく。
私たちは人間である。しかしながら、私たちは人間とは何であるかを知っているのだろうか?人間の本当の扱い方を知っているだろうか?私は少しでもおかしなものを口にすると下痢と吐き気に見舞われる。また、ちょっとでも食べ過ぎると下痢は免れない。その上、電磁波アレルギー。だから携帯は持てないし、ホットカーペットの上には座れない。普通の人から見るとややこしい体質だと思われるだろう。しかし、私は感謝している。危険なものを自分で察知できるからだ。最近、山田鷹夫さんの「不食」と甲田光雄さんの「少食の実行で世界は救われる」の2冊を立て続けに読んだ。私は前にも戯言で書いていたが、「人間は食べなくても生きられる」と確信している。世界中には食べずに生きている人はたくさんいる。ある程度の高波動レベルに達している人の話ではあるが・・・。基本的に今の日本人は食べすぎなのは間違いない。過食が全ての病気を引き起こしていることも間違いない。胃が休むまもなく次々と流し込まれてくる大量の食べ物。胃の気持ちになったらどうだろうか?「ちょっとは休ませてくれ」って言いたくなる。日本人には食事した後にお茶を飲む習慣があるが、固形物を胃で消化しているときに液体が急に流れてきたらどうだろうか?胃液が薄まり消化が不十分なまま腸へを押し流されて行くことになる。水分は食べる前にとって「これから食べ物が来るよ」って胃に教えるほうが良い。とにかく、消化するっていうのはとんでもなくエネルギーを必要とするのだ。食べて吸収されたエネルギーがほとんど消化するためのエネルギーに使われていたりして・・・。なんか無駄な気がしないこともない。食べると眠くなる経験をしたことのある人は多いだろうが、それは食べたものを消化しようとして消化器官が動いている証拠なのだ。消化器官を動かすエネルギーは膨大なのでその他の器官は休もうとする。つまり、脳と体が寝る。過食して睡眠時間が短いとどうなるかはこれでだいたい想像がつくだろう。私は農業をしている。つまり、食べ物を生産している立場がこんなことを言っていては商売が成り立たなくなる。「食べなくても生きていける」「食べると老化する」「食べると病気になる」はははっ。農家かたなしや。でも、まだ今の世の中では「食べないと力がでえへん」「食べないと死んでしまう」理論が超多数を占めているので商売成立!!これからこのまま行けば食糧危機・水不足・自然災害・人的災害がますます増えることは目に見えています。そのとき「食べなくても生きていける」と知っていたらどうだろうか?食べ物を捜し歩く必要もない。不食を実行すると病気・老化から解放される。重労働するとやはり疲れるそうだが、すぐ回復するようだ。また体重は一時期減るのだが、ある時から一定で止まる。少量の水と空気はやっぱり必要だけど。私はこの2冊の本でずっと疑問だったことがやっと解け始めた。疑問とは「どうして野菜(植物)は無肥料で育つのに、人間は食べないと生きていけないのだろうか。」というものだ。どんな生き物も原子と分子の塊のはず。同じもので出来ているのだから、同じことが出来るはず。私は人類が滅びかけても不食の体で野菜を育つのを見守りつつ、山に木を植えていきたい。ちなみに私はいま、腹7分目で一日2食を実行している。ときたま、甘いもの誘惑に駆られる事もある。報告としては便通が非常に良い。便の固さがちょうど良い。下痢等は一切なくなった。そして汚い話ばかりになるが屁が臭くなくなった。今までは屁が物凄く臭かった。やっぱり食べすぎでお腹の中で消化しきれない食べ物が腐っていたようだ。屁の回数も減った。それとなんだかお腹が空くっていうのもとても気持ちが良い。体が少し透明になっていくような感じさえする。体力面でも変わらない。農作業をしていても腹が減って動けないってことは一切ない。ただ、家族といっしょに住んでいるのがネックになっている。「食べないとダメ」って毎日のように言われるのがつらい。不食を実行すると必ずぶつかる壁である。「食べるのを減らす」若しくは「食べない」だけで健康的な生活が送れるとはすばらしい。誰にでも出来てお金もかからない。最高の健康法だ!!最後に念を押しておくが、不食は自分の意思に於いて自己責任によって行ってください。話はぶっ飛ぶがテレポートするには自らを非物質化すればよいと何かで知ったが、「不食」の実行で非物質化が可能であることがわかった。すごい!もうひとつの疑問さえ解け始めたぞ。すごい勢いで宇宙エネルギーが注がれている。私自身がどんどん紐解かれてゆく。解放の日は近いかもしれない。ありがとう。
私たちが毎日飲んでいる水はどこから来ているのでしょうか?川?湖?雨でしょか?海からともいえるかもしれません。つまり水は循環しているのです。しかし水は水でも森から湧き出た水は栄養たっぷりです。降った雨が60年も掛けて浄化されて湧き出た水は格別です。皆さんは最近山に登りにいったことがあるでしょうか?どこを眺めても杉と桧。三角のとがった樹形が永遠と続いています。私の家も山奥にあるのですが、ほぼ杉一色です。森林組合の測量のお手伝いをしていろんな山に行ったけど、やはり杉と桧。たまに低木のアセビだけがぽつぽつさびしく生えているだけ。林業が低迷しており間伐も満足にされておらず、桧は立ち枯れしているものも多く、山のあちこちで土砂すべりが起こっている。杉の根は浅く、雨がちょっと降り続けば鉄砲水が出る始末。この現象が日本中で起こっているのです。杉や桧は1年中葉が落ちることが無く、動物の餌となる実もならない。山の動物は今、飢えている。毎晩、動物は田畑に出てくる。鹿・イノシシ・サル・うさぎ・タヌキ・鳥・・・。高齢化の地域では田畑をする人が年々減ってきている。今、動物たちは人間の農作物をあてにすることが出来なくなってきたのです。動物たちはだんだんと街のほうへと移動を始めているのを感じる。彼らが悪いのではない事を理解しなくてはならない。ただ、生きたいだけなのです。我々飽食の時代に生まれ育ってきた人間は飢餓の苦しみを知りません。スーパーに行けば食べ物があふれています。ところが、動物たちにはスーパーがありません。人間が動物たちを苦しめているのです。国の政策とはいえ木の実や草の豊富な奥山を杉と桧の2色に変えてしまい、金にならないからといって放置したのです。街の人間には関係ないと思いがちですが、違います。山が荒れれば水がなくなる。水がなくなれば農業が出来ない。つまり食べ物がなくなるのです。私は、ずっとその危機感を感じていました。だから、農業をしようと思ったのです。しかし、なんということか!農業も出来なくなりつつあります。人は生まれてきたのは、ただただ金儲けするためでも、自然を壊す(間接的自殺)ためでもないはず。せっかく生まれてきたんですよ。思いっきり楽しんで、みんなで笑って毎日ワクワクしていたいじゃないですか。そのためには、豊かな森が必要です。森に生きるたくさんの植物と動物が必要です。自然とは密に絡み合った絶妙なバランスを保っています。何が一つ欠けても、自然にとっては重大な損失なのです。私には今、命の危険がせまっていることに危機感のない人が多すぎることに危機感を感じます。数年後には世界的食糧難が来るでしょう。その数年後には水の奪い合いであちこちで紛争が起きるでしょう。人間はこのまま滅んでいく生き物ではないですよね?誰かが救ってくれるのをまだ待つんですか?存在し得ないスーパーマンでも呼ぶんですか?私は日本熊森協会に入りました。お金は無いけど、広める口と・動く手足があります。あなたは何をもっていますか?何が出来ますか?日本熊森協会は熊(大型野生動物)の住める森を残そうと真剣に取り組んでいます。私は数年前から裏山の杉を切り始めました。大変体力のいる危険な作業です。同時並行でドングリを拾ってきて苗を育てています。まず、自分が周りの人に手本を示さないといけませんからね。山の木を切るのは一瞬です。しかし、ドングリを蒔いて、ドングリがなるまで5年以上かかります。大変重大なものを失ってしまったんですね。日本に原生林はもうわずかです。熊森会はトラスト部門を立ち上げ、残っている原生林を買い取り完全保護をしています。本当は国がするべきなんですが・・・。防衛費の3兆円を回して欲しい。宇宙開発なんてしている場合じゃないよ。もしくは、森を守るためだったら消費税を上げてください。金がいっぱいあっても使い方をまるで知らない国会にはほとほとあきれてしまいます。森がなくなることは例外なく全ての生き物たちの死に直結します。ああ、私がじいさんになって縁側でお茶をすすりたい。みなさん、お金・手足・口・頭脳のいずれかでも日本熊森協会に貸してやってほしい。自分と家族・愛する人を救うために。
私たちは一度の食事により多くの種類の食物をとる事を体に良いのだと信じ込まされてきました。1日に30品目のバランスの良い食事を。ところがラマ僧は1回の食事に1種類の野菜か果物を頂くだけなのだ。「そんなんで大丈夫なのだろうか?」と思われる方が多いでしょうが、ラマ層には太っている人もやせすぎている人もいません。もちろん病気にかかっている人もいません。健康そのもので見た目も年齢よりはるかに若く見えるそうです。ラマ僧は基本的にベジタリアンです。しかし、卵・バター・チーズなどを食べます。肉だって食べることがあります。肉を食べる時は肉だけを食べます。でんぷんのあるパン・ご飯・麺・イモ類を肉や卵・チーズも一緒に食べますと、胃の中で化学反応が起きてガスが発生します。そのガスが内臓に害を与え、寿命を縮め、生命力を低下させます。この事はエドガー・ケイシーもいつも言っています。だから「肉ばっかり食べないで野菜も一緒に食べなさい。」と子供に注意するのでなく、「今回の食事は肉だけを食べなさい」と言うべきなのです。次の食事に野菜か果物だけを食べればよいのです。強壮で元気な人は実は肉は必要ありません。体が弱っている人にこそ肉は必要なのです。しかしながら急に食生活を変えることは無理かもしれません。今、健康で元気マンマンならそんなに気にすることはありません。体か疲れやすくだるい人には注意が必要かもしれません。もうひとつ提案があります。それは、よく噛むことです。現在の日本の食物自給率は38%です。今後、異常気象などで食物はますます減ってくることでしょう。口の中でとろとろになるぐらいまでよく噛んでください。そうすると、胃への負担も少なくなるし、歯も丈夫になり、脳も冴えてくることでしょう。なにより、半分の食物で満腹感を得れるようになるでしょう。省エネ人間誕生!!現在日本では調理した料理の半分が食べ残されているそうです。なんともったいないことでしょう。実は食べ物にも原因があると思っています。食材がおいしくないのです。見た目は昔と変わらないのに。中身がすっからかん。おいしくないものにメタラヤッタラに化学調味料で濃く味をつけています。もう、最悪です。考えてみれば、こんな食べ物を「残さず食べろ。」「よく噛んで食べろ。」なんて拷問に等しいです。噛むほどに味わい深いものなど早々無いのです。最近は食品の偽装問題も次々に発覚しています。食べ物が命を支えていると言う根本さえも完全無視している。許しがたい。初心に返って「作っている本人が本当に食べたい」と思えるものを作ってほしいと心から願う。私たち一人一人がもう一度、きちんとした食事とは何なのかと考え直す必要があるかもしれません。単純な調理法は省エネにもなります。生で・焼くだけ・茹でるだけ・蒸すだけ。さあ、どうですか愛情を込めて育った野菜をシンプル調理でよく噛んで時間ゆったりと頂いて、食べ残しも無い。エネルギー消費も食費も削減・おまけに自給率問題も解決、そして家族も健康。最高です。最後にまとめ。@でんぷんと肉類(動物性蛋白質)を一緒に食べない。(肉じゃが禁止)Aコーヒーなどカフェインを含むものを摂らない。(どうしても飲みたいならブラック&ストレート)B食物をとろとろになるまでよく噛む。C食前か食後に卵黄を頂く。D1度の食事で食べる食物の種類をなるべく減らすこと。まあ、出来ること頃からやってください。ちなみに、この文は書籍「5つのチベットの体操」を参考にしました。超気になる方は読んでみてください。あなたの人生を若々しくしてくれること間違い無しです。
生きているとたくさんの壁にぶち当たることがある。壁のほとんどは自ら作り出しているものが多い。私も農業がうまくいかないことが多すぎる。いつも自分の無能さを嘆いている。たまには、自然や天気のせいにしたりもする弱い人間である。しかし、必ず何か解決法があるはずだと考えるようになる。ぼんやり放心状態で、家に引きこもり、何もしないで農業の事を忘れるぐらい堕落した人間になりまくります。結局、答えは出ないことが多いですがいつのまにか畑の草取りや、懲りずに種蒔をしている。すぐに成功しては何の面白みも無いのかもしれません。野菜や米が美しく実り、調和した田畑にすることは夢です。草・虫とも共生した楽園。互いにいばることなく最低限必要な分の大地を分け合い、ゆっくりと時の流れに浸る。私はその一員になりたい。今はもっと自然の事を知らなければならない。不可能は自分があきらめた時に感じるもの。野菜が虫にやられることも必ず何か原因があるはずなのである。虫や病気にやられていないものがその傍にいる限り、そこに何かメッセージが隠されているのです。それを汲み取る心の余裕が人間側にあるかないか。うまくいかない時は「何かやり方がおかしいよ」って教えてくれているのです。もちろん農業だけの話ではありません。人との関係がうまくいかないときもそうでしょうし、それぞれの仕事がうまくいかないときも。メッセージはあらゆる時にあらゆる所で発せられています。宇宙的には常によい方向へ向かおうとしています。悪いことを企てても何度も思いとどまらせるようメッセージが届けられることでしょう。メッセージは「宇宙的願い」です。最終決定は人間一人一人に委ねられています。これが自由意志。何が正しいのやら、どこへ向かうべきなのか、よく忘れてしまいます。どんなことが起きてもいつも解決策を与えられているのだと私は強く感じます。感情的に爆発しそうになったり、ひどく落ち込みそうになってもきっと「全てはうまくいく」と知っていれば良いんだ。「全てはうまくいく」は私の好きな独り言。でも、虫に野菜がやられてしまった時は真剣に落ち込み、鳥に豆を取られて収穫が少なくなったら大いに怒り、おいしい野菜を食べれたら「ありがとう」って喜び転げまわりたい。自分が今どう感じているのか知り、その感情満喫したい。その後、心を落ち着かせ静寂に身を置きメッセージを受け取り少し前に進む。あなたの壁は何でできていますか?
右に向かうかそれとも左か?人生には絶え間なく選択が求められる。私が山の中で農業をやっているのも選択をした結果です。どこかで選択を誤ったり、横道にそれていれば今の自分ではないかもしれません。大きな機転となる選択はよく考えて導き出すので素直な心で道を踏み出せばよいのですが、大切なのは日々起こる小さな小さな選択だと思います。普通は選択をしているかも覚えてすらいない選択です。夕食のメニューを何にするか?どの道を通って帰るか?休日に何をするか?転がっている石ころを蹴飛ばすか?服についたススキの種を掃うか?ほんのちょっとした行動が人生を変えることはよくあります。私なんか高校生のとき本屋の漫画のコーナーで「SEED」をジャケ買いしたのが、農業をするきっかけなのです。もし本屋にそのに行ってなかったら。もし、「SEED」を手にとっただけで買わなかったら?偶然は必然だといつも感じる。人は他の動物と違って自由意志が与えられている。つまり、選択は本人に完全に任せられてる。周りの意見に振り回さられる人はいるけど、結局周りに意見に賛同したのはその人の意思なのです。時代によっては選択の自由が無かったこともあったけど、今は自分でしっかりと選ばないと「なんとなく人生」になってします。別にそんな人生も悪くないかな?焦って急いで慌てて選択しても「俺に人生は最高だー」と死んでゆけるとは限らない。ただ、常に選択は続いている。両親の結婚の選択、祖父母の結婚の選択、超大昔からの選択の結果、私が生きていることは真実だ。日々どんなものを食べるかの選択は結局未来を選択していることになるかもしれない。今瞬間の選択が「地球が豊かな星のままでいられるか?」「幸せな家族を作れるか?」を左右する気がする。周りにも自分にもやさしい選択をすることで過去も現在も未来さえも明るいものへと変えることが出来るのだ。そのためには「今が選択のときだ」と気付けるように心を開いておかなくてはならない。きっと、誰にも素晴らしい選択が出来ることだと思う。
8月は終戦日やお盆があるのでどうしても戦争や死について考えることが多い。戦争はいけないことだと誰でも分かっているのに、戦争は地球上から未だに無くなっていない。平和な世の中にするために戦う物語は多く、大切な仲間や恋人・両親を失う事で強さが増すヒーローが横行している。大体人間はどうして人間を殺すのだろう。戦争している人が全員がどうしようもない極悪人ってわけでもない。実際に戦争が終わったとしても、得をするのは安全な場所で優雅な生活をしている武器商人と投資家ぐらいのもんだ。日本は憲法9条を改正しようとしている。確かに日本には自衛という名のもとに戦闘部隊が存在する。戦車に戦闘機・武器・弾薬。初めっから憲法違反なのである。しかも、非核三原則があるのにかかわらず、核爆弾数発分のプルトニウムも持っている。いちおう平和利用といわれ原子力発電で使われているのであるが、あまりの非効率発電で将来的に廃棄物問題等で持て余すだろう。沖縄のある島の話を聞いたことがある。その島は第2次大戦のとき島に上陸した日本兵に村長はこう言ったそうだ。「この島は私たち住人で一致団結してお守りしますので、あなた方は必要ありません。」日本兵は他の島へ移動したそうです。その後アメリカ兵がその島に上陸してきました。しかし、武器を持った者もおらず、日本兵も一人もいない島を見て何もせずに引き上げて行ったそうです。火の無いところに煙は立たず。他の周りの島は日本兵がいたために無残にもたくさんの方が亡くなったそうです。武器を持つことは相手に敵だと知らせ弾丸を撃つ機会を与えるようなものなのです。もしあなたの家の前をマシンガンを下げた人がウロウロしていたらどう思いますか?いい気持ちはしないでしょう。でも、イラクでは日常茶飯事なのです。確かにこの世の中にはどうしてか、援助のために力を尽くしている人たちを誘拐するような人がいる。とても悲しいことです。日本は何から守るために武器が必要なのでしょうか?北朝鮮からミサイルが発射されて日本を飛び越して太平洋に落ちても気付かなかった日本はどうやって守るというのでしょうか?私なら武器なんてみんな排除します。自衛隊は地震などの自然災害に遭った世界中の人を助けるレスキュー隊にすればよいと思う。社会保障費が増大する一方の日本にこれ以上人間を殺す武器を買う余裕なんて一切ありません。アメリカ軍基地に払うお金もありません。武器の無い国を武器で守る必要はありません。どうしても日本で居たいなら家賃を払って住んで貰えばいいんです。「武器は人を殺す道具」に間違いありません。武器をもっている人間から家族を守るために必要だと思っているなら、もっとよく考えればとっても矛盾していることに気付くでしょう。武器を持つのは恐怖心からではないでしょうか?「誰かに襲われるかもしれない」「やられる前にやら無くては」襲われる?やられる?あんたいったい何をしたんですか?武器を持っていなくても流れ弾に当たったり、爆弾で崩れた瓦礫の下敷きになることがあるかもしれない。そんなことを言い出したら、普通に歩いていても車にはねられたり、マムシや蜂に刺されて死ぬことがある事にも説明がつかなくなる。日本は世界唯一の被爆国でありながら、なぜか弱い立場に立たされている。「核兵器がなくなるのはそれ以上の兵器が開発されるときだ。」と誰かが言っていたけど、何百万人もの命を一瞬にして奪う兵器が何でそんなにみんなが欲しがるのですか?実際核兵器を何千発も持っていても結局使い道なんか無いじゃないですか?使えないものが他国への脅しになるとも思えないし。だいたい、核兵器2、3発で人類が滅亡するのに充分なのに、なぜ何千発も必要なんですか?結局何も持っていないのが1番強いような気がする。悪い事をしていつかつかまるんじゃないかとびくびくしている犯罪者が核保有国。結局、核兵器は自殺行為。みんな心に余裕がなくなってきたんですね。忙しく働きすぎて、働くのをやめるとお金がなくなって生きていけなくなるという恐怖に打ち勝つために必死なんですね。でも、働いても働いても、お金がいくらあっても心は満たされない。どんなに核兵器で武装しても安心を得ることは決してない。誰もが自分の力だけで生きていると思いがちなんですね。自分以外誰もいなくなった世界で自分が本当に笑顔になれるときがくるだろうか?大丈夫だよ。ゆっくり。ゆっくり。焦らなくてもいいんだよ。あなたも私もそんなに強くなくてもじゅうぶん輝けるヒーローです。武器がこの世から消えて、孤児も飢餓や怪我で苦しむ人も笑ってちっぽけな夢を語れる日が来ることを願っています。
最近気になって購入した「リサイクルは資源のムダ使い」という本を読んでの感想を身勝手に書きたいと思います。普段生活をしていて知りえないリサイクルの裏側についてわかりやすく書かれています。前からアルミ缶やペッとボトルのリサイクルは普通にアルミ缶やペットボトルを作るよりエネルギーが必要なことは知っていましたが、これほどお金(人件費)と電気代がかかるとは知りませんでした。この本はペッとボトルは燃やして発電するのがもっとも効率的だと言っています。ペッとボトルはもともと石油から作られています。ガソリン・軽油・灯油・重油はみんな燃やしてエネルギーに変えているのが現代社会です。何故ペットボトルは燃やしてはいけないと勘違いしてしまったのでしょうか?ペットボトルは塩素を含んでいませんから、燃やしてもダイオキシンは発生しません。水と二酸化炭素になるだけです。ペットボトルは非常に便利なものです。EM菌の培養には欠かせません。つまりすぐに無くすこと無理でしょうね。でもリイサクルと名をうって実は環境破壊になっていては意味がありません。アルミ缶もリサイクルできるからといってかなり急速に普及しましたが、ビンの方が加工しなおさないでも再利用できるので環境への負荷は少ないでしょう。洗浄剤の問題はあるけど・・・。分別、リサイクルをすれば何でも環境に優しいってわけではない事を知らなければなりません。この本は地球温暖化が二酸化炭素だけによるものでは無いこと・自然発電(風力・太陽光)の超非効率さ・家畜を通して広がる多剤耐性菌・高濃度の硝酸態窒素を含むミネラル不足の野菜・トランス脂肪酸を含む油脂(マーガリン・ショートニング)の恐ろしさ・食品の偽物表示・水道水の塩素の危険性・化学物質過敏症で学校に行けない子供たち・化学物質に侵された野生動物たち・・・人間の生み出すものはこんなもんばかりでいいんですか?自分で生産したものを恐ろしくて食べない人が山ほどいて・・・このままでいいんですか?何も知らないままで人類が滅びる・・・何のためにこの世に生を受けたのですか?黙ってりゃ分からない。私ひとりぐらい。同じ星で歩き・同じ空気を吸い・同じ細胞でできた体をもち、私たち誰一人違いなんて無いんです。つながっているんです。誰でも人や自然を愛するときに喜びを感じるでしょう。失われれば悲しく涙するでしょう。当たり前の事を当たり前に考え、感じれば自ずと真実と共にあるでしょう。この本はただ恐ろしい現実を突きつけるだけでなく、私たち誰にでも出来る解決の方法も教えてくれています。頑張りすぎるのもよくありません。全ての人の1歩は物凄い大きな1歩です。60億人で60億歩。美しい地球をいつまでも。
近頃は化学物質過敏症の人が増えているようです。シックハウスの問題もありますが、食べ物でも起こることはあまり知られていません。食品にもさまざまな化学物質が含まれており、野菜そのものですら、化学肥料に農薬が使われています。有機肥料ももちろん例外ではなく、家畜の飼料の栽培課程で用いられて農薬や化成肥料、家畜が病気にならないために用いられた薬品類が含まれている可能性は払拭できません。結果から言うと、科学物質過敏症の人は無農薬・無肥料の野菜しか食べることが出来ません。現代社会では食べれるものがほぼ0に近い状態です。私はこの話を知って、誰かひとりでも食べることが出来ない野菜を育てて一体なんになるのか?みんながおいしく食べれるものを届けなくては。化学物質過敏症が特にひどい人は無農薬・無肥料栽培でも種子消毒をした野菜の種を使っただけで湿疹などの症状が出るらしいです。よく考えてみると、この人の体こそが本来の姿でなくてはならないのです。一般の人は症状が出ないのは体内に毒物を溜め込んでいるだけなのです。排出しないと将来的に何らかの病気にかかることは目に見えています。決して特別な人だけの問題ではないのです。私自身は悪いものを食べるとすぐに下痢と吐き気がします。初めて食べた松阪牛ではひどい目にあった。(全部の松阪牛が悪いかは分からないが、2日は下痢で苦しんだ。)野菜ジュースの入ったパンを食べたら体中に湿疹が出来た。とにかく体が正常だと体に悪いものは外に排出しようとするのは自然なことなのです。毒物を出し切れば元の健康体に戻れる自然治癒力の賜物なのです。無農薬・無肥料の野菜はとても値段が高いです。(金持ちしか食べれないのは問題だが、農家の手間とリスクを考えたら何ともいえない。逆にいうと一般の野菜が安すぎるのも問題なのだ。)その上無農薬・無肥料の自家採種で育った野菜となると手に入ることはまずないでしょう。だから私は自分の手でやっているのです。まだまだ、人様に分けれるほどではありませんが、自ら自然と共に育った野菜を頂く方法なら私ごときにわかる程度を伝えていきたいと思います。「誰にでも食べれるもの」より多くの人にその野菜の素晴らしさを知ってもらい、これからどんどん広がっていく事を切に願っています。
「ずっとこういう風の野菜を育ててきたから、この方法が良いのだ。」長年やってきた肥料のやり方や量、耕し方、畝の立て方、水のやり方と量。普通の人は不安もあり「やらないことをやったことがない」ってことで、足し算で物事を考えているようです。私は引き算で農業を考えています。やらなくても良いまたはやってもやらなくても変わらない作業はどんどん引いていきます。野菜が覆われる直前に草を刈ればいいし、野菜自身がどうしても乾燥続きで水を手に入れなさそうなときだけ水をあげればよい。野菜自身の力を見守り、気付いてあげるだけでいい。種蒔・草取りまたは刈り・収穫。こぼれ種農法なら種蒔もいらない。実は自然界も引き算なのである。人間が野菜に与える分だけ自然の力は減ってゆく。化成肥料を大量に与えると、栄養を作り出す微生物たちはお役ごめんになる。「さいなら〜」と去ってゆく。農薬は語るまでもなく、人間の施し無しでは野菜は育たない土になる。有機肥料も例外ではなく、野菜自身が大きく根を伸ばす必要がなく、ちょっと手?足?を伸ばせは届くところにうまい飯がある。怠け者になりそう?人間の子育てに置き換えて考えてみると面白い。ほしい物・食べたいものがいつも近くにあればどうだろうか。サプリメントみたいな栄養剤だけを飲ませるのはどうだろうか?すぐ病気にかかるからといってそのたびに薬を飲ませるのはどうだろうか?ほしいものは本当に自分に必要かをよく考え、食べ物も自分の体に合うかを考え自分自身の手で手に入れようとし、自ら病気にならない体を作れるようになることが子供のためなのではないでしょうか?愛は押し付けるものでも執着するものでもありません。親という漢字の成り立ちのように木の裏にそっと立って見守ることが大切なのかもしれません。自ら答えを求めて旅立つ子供の背中を優しく後押しし送り出すことも愛なのではないでしょうか?必要なときに必要なだけ手を差し伸べてあげる。理解力のあるフリだけではない、私はそんな野菜の保護者になりたい。野菜の声を受けとめたい。
私は極小農家である。しかも、無農薬・無肥料というほとんどの農家が考えもやりもしないことに没頭している。堆肥などの肥料をやって虫や病気なれば木酢液などの自然農薬を施せばよい有機農家になれば、本来悩むことも無い問題に頭を抱えなくても済む。実際に私もそういう有機農法から農業の道に入った。しかし、どうしても肥料を畑に入れるたびに「何か違う」と思えてならなかったのです。でもその「何か」はわかりません。「野菜の販売だけでやっていけるのか?」っていろんな人によく聞かれます。儲かるかどうかで考えると「儲かりません」。無肥料・無農薬の野菜を高値で販売しているところの実際あります。でも、実際にはそれでも儲かっていないと思います。お子さんが化学物質過敏症になって農薬や肥料を使って育った野菜が食べれなくなってでもしまわない限り、無肥料の野菜に目を向けることはまず無いでしょう。現代人はほとんど食事にお金をかけません。より安いもの・ファーストフードで済ませてしまいます。逆に高級な食材にこだわる人もいますが、体を第一に考えたものを食べているわけではありません。人間は食べたもので体を作っています。あまり神経質になりすぎるのも恐ろしいことですが、シンプルな調理法・調味料で頂くのは大切なことだと思います。エンゲル係数が高いと貧しいのは特に日本では嘘です。食費より医療費のほうが高い人がいるなんておかしくないですか?私はまず自分自身をお金によってでなく命ある食べ物によって生きたいと思って農業を始めました。お金は決して悪ではありません。こうしてパソコンに文字を打ち込むのだって電気は必要です。おいしく野菜を料理をするのにはガスも必要です。寒さから身を守る服や雨風からしのげる家、大好きな人に会いに行くための車も必要です。お金でたくさんの人を救うことも出来ます。「悪」とするか「善」とするか、お金を持っている人の裁量に任せられています。私も普通の人間で、欲が渦巻いています。必要の無い物に目を奪われそうになることもあり葛藤が絶えません。まだまだ超リトルブッダですね。実際、今は農業ではまかないきれません。他で仕事することも多いです。野菜にしてあげれる事は後悔のないように全てやるつもりではいますが、ほとんど収穫のないことも多々あります。失敗からの反省は妙薬なり。物質的なものは何も与えることの出来ない無肥料栽培の道は疑心を捨て去ら無くてはならないかなり険しいものですが、歩く道の先には誰も見たことも無い温かい光にあふれていること間違い無しです。自然に学ぶ謙虚な心を持ち、愛に満ちた野菜を正等な価格でお届けしたいです。
12月7日に放送された、NHKの「プロフェッショナルの流儀」で紹介されたリンゴ農家の木村芳則さんの言葉「リンゴは愛で育てる」には私が思っていることにだぶって全身がゾクッとした。2年前ほどに農業の大きな疑問にぶち当たったときに木村さんのリンゴのことを知りました。日本で唯一の無肥料・無農薬のリンゴ見守り人は存在は衝撃でした。リンゴはほとんどが農薬漬けで、年間に20回近くの農薬をしています。皮ごとかじるなんてとんでもないことです。一般的な常識(誰が言っているのかはわからないけど)では、リンゴは農薬無しでは絶対に無理だと言われていました。木村さんは8年間堪えに堪えました。花もつかず冬でもないのに枯れて落ちてゆく葉を見つめるたびに何度涙したことでしょうか。死のうとまで考えましたが、さすが自然は見捨てなかったようです。虫や病気は人間にいたずらしようとして存在しているわけでは決して無いのです。弱りきった木々や大地を浄化するために自らの体を自然にゆだねてひたすら働いているのですね。無肥料・無農薬の農家は人間の無力さを感じずに入られません。だたひたすら自然に任せるしかないのですから。何かうまく生育しないと、原因はだいたい自分自身の余計な行動です。やらないくて良いことを「うまくいかないのでは?」と勝手に思いこみやってしまうのです。だからといって何もしなくて言い訳ではないのです。その微妙な境界線を見極めるのは非常に困難で、とにかく経験が必要です。8年目、木村さんの畑にようやく花が咲いた時は家族で言葉も出ずに泣いたそうです。この話は何度聞いてもなんだか、じ〜んときます。私は何度か木村さんのリンゴを注文して食べましたが、香りとツヤがとにかく違う。そして日持ちがむちゃくちゃいいのだ。味は直径1mリンゴ(あればの話)がぎゅっと凝縮された感じ。濃厚なのにすっきりとした甘味には驚くべきである。現在は人気が出すぎて手に入りにくくなっているので残念だ。私もいつかは「野菜は愛だけで育つ」と言ってみたい。もっともっと心をシンプルにして野菜と付き合わないとね。人間が環境を汚すことなく野菜に対してどんな手助けが出来るのだろうか?こういうことは頭で考えると余計にわからなくなってくる。言葉を超えた、温かい光を愛を降り注ぐんだ。ありがとうの気持ちも・・・。
私たち人間は土のおかげで生きている。人間だけでなく全ての動物・植物にとって土は必要不可欠だ。つちの力は計り知れない。いまだに土のことは良くわかっていないのが現実なのだ。素材は岩や石ころだろうけど、植物が育つ土になるまでは気の遠くなるような時間が必要だ。園芸書には「土作りが大切です。」と書かれているが、実際に土を作ることなど不可能だ。土には黒いものや赤っぽいものや砂質や粘土質などさまざまである。また、すんでいる小動物や微生物にも若干の相違がみられるようだ。農業は土をじっくり観察して育てていくのが仕事である。「育てる」というのもおこがましいが、米や野菜が健康に育つにはやはり土が健康でないといけないのは誰にでもうなずけることだ。健康な土にどうすればなるのでしょうか?これが人類にとっての最大の課題であることに間違いない。実際にこの事について研究している人はたくさんいるが、かなり一人一人の考えや意見が平行線なのだ。まず、農薬や化学合成肥料が土によろしくないのはなんとなくわかるでしょう。私的には20年以上残留する恐れのある有機肥料より3年ほどで殆んど効果のなくなる化学肥料の方がほんの少しはマシな気もするが、でも五十歩百歩って感じですかね。ある元素に注目する人もいれば、微生物に託す人もいます。まあ、それだけ世界中の大地は疲れ果ててもう死にかけ寸前なのです。科学も世界を良くする方向に使えば人類滅亡を逃れられることでしょう。土の浄化力はたいしたものです。少々は時間がかかりますがたいていのものなら分解することが出来ます。人間の自然汚染行動には追いつかないのが現状ですが・・・。野菜は肥料で育つと思われていますが(確かに化学肥料でも野菜は育つ)、土が育てていると考える人が少ないのは不思議です。良い土が健康な野菜を育てる。野菜のために肥料を施すのでなく、土を育てるために堆肥などを微生物の餌として与えると考える方が自然ではないでしょうか?土は動いているし生きているのです。小さな虫や目には見えない微生物が絶え間なく働いてくれているのです。少々の異常気象や気候変化でもへっちゃらな土に変えてくれているのです。私は畑に大量の草を敷いたり鋤き込んだりするのですが、すごい速さで草が消えてゆくのです。影も形もなくなるのです。これこそ土が生きている証拠ではないでしょうか?1匹1匹は本当に些細な働きでも何億何兆と集まればそのパワーは計り知れないものです。土とはただの粉々になった鉱物ではありません。全ての生き物にとって大切な命の塊なんですね。
最近は何でもかんでも「安心・安全」とか枯れて野菜や果物が売られています。一体何が安心・安全なのでしょうか?どうやら農薬や化成肥料を使っていないわけではないらしい。ただ「安心・安全」と書けば売れると思っているだけなのでしょうか?農家は自分の家で食べる分と出荷する分を分けて栽培していることが多いのです。自分の家で食べる分は農薬を使わずに育てているのです。やはり、農薬は危険だと言うことは重々承知しているのです。私たちは農家の人が食べると危ないと判断された野菜を毎日体に取り込んでいるのです。そんなことがこのまま許されて良いのでしょうか?確かに年々農薬の散布量や種類などの規制が厳しくなっていますが、結局危険には変わりないのです。ヨーロッパではオーガニック野菜が普通の野菜に比べて3〜4倍の値段で売れています。日本ではせいぜい1.5倍がいいところです。リスク(数年間の収量が減ること)を負って手間を掛けてもこれでは食べてはいけません。いくら働いてもマイナスになるので自給的生活を目指すしかありません。まあ、私はそれでも十分満足しているのですが、農業はどんどん廃れていくでしょう。最終的には農業が駄目になれば誰も生きてはいけないので人類は絶滅するかもしれません。人間は野菜だけで生きていることは出来ますが肉や魚だけで生きていくのは非常に難しいことです。私は特に肉を食べると下痢をして大変なことになる体質なので米と野菜は命の糧です。しかし、その命の糧の野菜が病んでいます。ハウスや工場生産の野菜は無農薬だと謳っていますが、野菜(特にレタスのどの葉もの野菜)の栄養価(ビタミン・ミネラル)は1/3程度しかありません。有機野菜だから安全だとも限りません。有機肥料は化成肥料に比べて肥効が緩やかなので多めに施されることが多いのです。有機だろうが無機だろうが結局量を間違えば土には毒なのです。もちろん環境破壊であることは言うまでもありません。人間は食べたものの影響を大いに受けます。体がだるいや集中力が続かない、よく風邪を引く、ガンや糖尿病、精神的に落ち着かない・・・。命のエネルギーいっぱいの食べ物は元気にしてくれるはずです。実際問題、見た目や値段だけでは何が本当に「安心・安全」かはわかりません。究極を言えば自分で野菜を育てるしかありませんね。みんながみんなそんなことは無理なので、買ってきた野菜に声を掛けましょう。「ダイコンさん、あなたをおいしく料理をするからね。私達の体を元気いっぱいにしておくれ。ありがとう。」などと優しく声を掛けましょう。「まさか、そんなことで変わるはずがない」と思われる方もだまされたと思って1ヶ月ほど試してみてください。家族が変化するのをよく観察するのは面白いかもしれません。野菜たちは人間に食べられることをとても喜んでいるらしいです(肉は逆らしい)。本当の「安心・安全」とは食べて貰う人に愛情を込めて料理をすることなのかもしれません。もちろん、愛情いっぱいに育った野菜が手に入ればなおさらすばらしいでしょう。私も自分の仕事は野菜に愛をいっぱい贈って育つのをサポートすることだと忘れないように心がけないと。
私が今現在農業が出来ているのはすばらしい偶然が次々に起こったからである。今では偶然ではなく必然と言うか宇宙的なサポートを感じる。普通のサラリーマン家庭でなんとなく受験戦争にもまれながら進学校へと進み、勉強についていけなくなって挫折。学校の勉強に惹かれるものが全く無いことに心が空洞化してゆく。唯一楽しく続けていたバドミントンの倶楽部だけが生きがい。すばらしい先生にもめぐり合えててとても充実した。今でも忘れられない思い出で感謝している。その頃始めた家庭菜園で大きな壁ばかりにぶち当たる。毎日食べている野菜の育て方、土とはなんぞや、命とはなんぞや、草とは、自然とは・・・なんぞやー!!本を読んでも無い一つ知りたいことが載っていない。高校を出て農業の専門の学校にいっても結局知りたいことはなにひとつ学べなかった。その頃母が通院していた歯医者の本棚にあった1冊の本を私のために借りてきてくれたのだ。その本に心が躍りだした。これは会うしかない。と思い早速話を聞きに行った。農業の可能性が宇宙に広がるほど大きいのとをかんじる。本当のところ著者本人に何も聞けなかった。何を聞けばいいのかも実はわからなかった。逆に言葉で聞くものは何も無かった。パワーに圧倒されていたのかもしれない。その後もさまざまな農家を回った。全員やり方は少しずつ違い考え方も少し違っていた。でも、向かうところは同じように思えた。私は「農地を貸してあげる。」と言ってくれた人のところへ飛んでゆき、野菜の育ちなかなかうまくはいかなかったがたくさんすばらしい人に出会えた。1年くらい経ったとき両親がどう心変わりしたのか田舎に引っ越すので一緒に来てほしいと言ってきた。驚いたが、自分の農場を開けるに至ったことに感謝している。短い人生の中で必要なときに必要な声がかかっているのを不思議に思う。なんだか最初から用意されていたみたいな気もする。いまも、私は必要は満たされている。新たな農地がほしいと思ったときに「うちの田んぼ使えへんか〜」と声がかかり、農業でお金が必要なときには必要な額だけやってくる。全て必要なものは満たされていることに感謝してもし尽くせない。いま、私は周りの慣行農業をしている人に「農薬や肥料に頼らない農業に興味を待ってくれます。」と確信をもって祈っています。この思いが通じてきたのを最近感じます。うちの田んぼがだんだん良くできるようになってきていることに不思議に思いだしてきたようです。何度も見に来て首を傾げています。かなりよい傾向です。収量が多い田んぼはやっぱり1番農家の心をひきつけるようです。本当は目に見えないもっとすばらしいことが起きていることもわかってくれることでしょう。無肥料・無農薬の田んぼを見ていると「必要は満たされている」の言葉どおりの証明になるかもしれません。ほぼ0円で体・心・自然にやさしいおいしいお米が食べられるのです。地球はすばらしい教育の場です。ただ「○○になる」と思えば全ては成就するという単純な法則があるのみです。全てに感謝します。ありがとう。
農業は何年やってもわからないことだらけです。毎年何かしらの野菜の生育が悪くなり、逆に何でかうまく育つ野菜もあります。私たち人間は『野菜を育てている』と思っていますが、実は野菜は自然の力でほぼ育ち、残りの数パーセントを見守人の愛情によって育つような気がしてなりません。「たった数パーセントか」と思うかもしれませんが、野菜たちにとっては非常に影響力のあるものなのです。無農薬・無肥料では作業は草取り・土寄せ・水遣りぐらいしかありません。草取りは野菜との非常に密接な時間をとれる貴重なときです。1株1株に話し掛けて健康状態を知ることが出来ます。ただし病気がちだとわかっても虫にやられていても、農薬をふることは出来ません。手で虫を取ったりはしますが、そもそも虫がつくこと自体何かどこかに原因があるのです。その原因と探るためにもっとよく野菜と土と話し合います。どれだけ土が健全であっても種蒔の時期が少しずれると虫が寄ってきたり、大きく育たなかったりすることが良くあります。また、天候だけはただ受けいれるしかありません。人間は野生の生き物のように季節を感じる本能がとても弱まっており、ネガティブな考えの方が先頭をとろうとします。自己憐憫に陥って嘆いたり、異常気象や社会のせいにしたりしても何も始まりませんし、ただの時間の無駄です。いま自分のいる場所・自分自身から少しずつ変えていく必要があるのではないでしょうか?人に優しい言葉を掛けられると嬉しいように、野菜も優しい言葉を掛けられると喜んでくれるはずです。そしてその喜びは声をかけた側にもあたたかく響くことでしょう。私は毎年失敗ばかりです。しかし、この神様が創造した大地の上で働けることに非常に感謝しています。失敗を嘆いてばかりはいられません。全ての出来事は私のために用意してくれた有難いものだと思って受け入れていけば、何か先のほうに光が見えてくるような気がします。壁はどんどん大きくなるかもしれませんが、前に乗り越えた壁の分を引けばたいしたものではないかもしれません。どうしても駄目な時は静寂の中に身を置き心穏やかにして「ひらめき」が自然と流れてくるのを待つのはどうでしょうか?失敗に無い人などいません。それに、失敗が未来に役に立たなかった人もいません。失敗はより良い未来を作っているのかもしれません。「成功」とは何かはわかりません。人生に成功するにはただならぬ忍耐と努力が必要なのでしょう。私は壁を壁だと思わず、「失敗」を恐れずよく原因を見抜き、楽しく乗り越えていきたいです。皆さんは「失敗」からどんなことを学ぶでしょうか?
そもそも人間が自然の一部と考えるかどうかが問題なのです。もし、人間の存在が反自然的だとするならば、お米や野菜を育てること自体自然破壊なのかもしれません。「私は耕していないから」「私は農薬・化成肥料をしていないから」「私は草を抜かずに刈るだけだから」だから・・・だから・・・自然農法なのでしょうか?私は聞きたい。どうしてあなたは耕さないのですか?どうして農薬・肥料を使わないのですか?どうして虫や草を敵にしないのですか?自然農法で大切なのは『心』ではないでしょうか?生き物を愛する気持ち、地球を愛する気持ち、自分の本当の素直な気持ちを大切にすることではないでしょうか?農薬や肥料を撒布すれば大地にどういう影響を及ぼすか、どうして草は生え、虫はやってくるのか?いつも自然に問いかけ、自分の内にも問いかけ、全ての生きとしいけるものとひとつなろうといつも心をクリアにすることが求められています。我々が生きているのも、小さな小さな虫や草・土の粒にもきちんと立派な使命があるのです。「これは○○農法だから・・・」が重要でなくて一人一人が自分の住んでいる地球という星に愛を送れる農業をしていただけることを私は願っています。
世間は異常気象で騒いでいる割にはあまり実感が無いようです。農に携わっていると天候にはとても敏感になります。もともととは言えば異常気象は人間が引き起こした人災であるわけです。自然界と言うのは常に「浄化」の方向へと動いています。環境破壊が進んでいない頃は浄化の力の緩やかなものでした。しかし近年では化成肥料や農薬で土は汚れ、工場・生活廃水で海は汚れ、大地は人間たちが産み落としたゴミためになってきました。もう自然から見れば悠長なことは言ってられません。なんとしてでも一刻でも早く地球を浄化しなくてはならなくなったのでしょう。自然も命です。地球も命です。これからもずっと生きていかなくてはなりません。旱魃と洪水を繰り返し、海流さえも風さえも変えて元通りの地球を目指して動き始めたのではないでしょうか?言い換えれば我々の住みやすい地球に戻すために一生懸命働いてくれているのかもしれません。それとも「もう、人間はいらない」そう言っているのでしょうか?。環境問題は地球上に生きている全ての生き物たちの問題です。日照りと大雨で野菜が育たなくなったらいくらお金があったところで何の役も立たないし、夢も希望もありません。今まで汚した地球と地球人の心をきれいに磨くものはもちろんのこと、今瞬間によく自分のことをよく見なくてはなりません。現在の生活を原始時代に戻すことが大切なのではありません。我々を養ってくれる地球に常に感謝し、全ての人々が手つなぎ抱き合って協力し合うことなんです。喜びは世界共通なのです。愛してくれる人をどうして憎むことが出来るでしょうか?世界中の人が1本木を植えれば65億本。
一体我々は野菜に対してどれだけのことが出来るのだろうか?逆に私たち人間が最低限度どれだけ奉仕すれば野菜は1番心地よく育ってくれるのだろうか?毎日野菜と接しているにもかかわらずポンコツの私の第6感は全然働いていない。なんとか元気か元気じゃないかぐらいはなんとなく窺い知ることは出来るが。種まき・間引き・草取り・収穫。これだけで野菜を頂くことが出来る。私は肥料や農薬は一切与えないので農作業は超単純化される。主な手入れは日光や風を妨げる草を刈り、刈った草は土の乾燥や泥はねを防ぐために野菜の周りに敷いておく。野菜を育てているのは人間だけではない。太陽も雨も風も草も昆虫たちも鳥たちも、転がっていて何の役にもたたなさそうに見える石さえも大変重要な役割を担っている。太陽や雨はみなさんご存知のとおりです。風は葉についた虫や病原菌を飛ばしてくれます。草は大地を耕したくさんの有効な微生物たちやミネラルを供給してくれます。昆虫たちは受粉の手助けや少し弱った葉などを食べて浄化してくれます。石は雨でちびちびと削られて大地にミネラルを供給し、太陽熱を蓄える働きをしています。日照時間の少ない地域では果樹の周りに大き目の石をたくさんをいて栽培しているところもあります。中国では岩に生えている茶木からとれた茶はとてもおいしく高級なのです。このように、なにひとつとして無駄なものは無く全ての力がひとつになったときだけおいしいものが生まれるのです。人間はこれらの自然の力を感じもせず肥料を撒き農薬をふりかけているのです。もし自然の力で足りない?分があればその部分を補えばいいかもしれません。(でも、足りない部分があるなら山の木々は、草原の草は、野生動物たちはどうやって生きてきたのでしょうか?)「手抜き」という言葉は良くありませんね。手抜きとはやらなければならないのに実行しないことです。私は本当にやらなければいけないのか、本当に必要なのかを見極める力を身に付け、必要以上のことを無理して行わないことが自然を守ることにつながると思っています。自然をよく観察をしありのままのあふれんばかりのパワーを活かしてゆくのがこれからの農業かもしれません。何億年も続いてきたバランスサイクルをこれからも続いてゆくためにも・・・。
毎日野菜と接していると気付くことがたくさんあります。野菜は人間の体調がどうやら分かるようなのです。1番たくさん声をかけてくれている人の体に不足している栄養分を補おうとしているのです。つまり私の畑の野菜は私の体にぴったりな野菜というわけです。自分で育てた野菜を食べると良いというのはこういうことだったのです。ここからは推測ですが「○○さんにぴったりの野菜になってね」と特定の人の顔を思い浮かべながら声かけをして野菜と接していれば、○○さんにぴったりの体調を改善する野菜へと変化するかもしれません。そんなぴったり野菜が食べたい人はぜひ自らの手で野菜を育てて、毎日声かけをしてください。
ある人がいいました。「体調が悪い時は身近に生える草を摘んで煎じて飲みなさい。あなたの体調を気遣ってわざわざあなたの下に生えてきてくれるのです。」必要なものは全て身近に有り、自然は我々を見捨てることなどありえないということです。もちろん毒草などを見分ける眼はいります。
健康な人が草を煎じて飲むととっても苦く感じます。それは、「あなたには飲む必要はありません。あなたは元気いっぱい健康体です」というメッセージだと思ってください。反対に苦味を全く感じないときもあります。「これはあなたの体に必要です。どうぞお飲みください。」と伝えたがっているのです。このことは漢方薬でもいえることです。必要なものはスッと体の中に入っていくのです。そんな気遣ってくれる野菜や草に感謝していただきましょう。草の力は満月の日に摘むと最高です!!
植物にとって微生物は無くてはならない存在です。自然界では田畑のように肥料が施されることはありません。では、どのようにして木や草は育つのでしょうか?草木が育つためには窒素・リン酸・カリウムのほか鉄や銅・マンガン・マグネシウムなどの微量要素が必要といわれています。窒素は空気中の約80%を占めるので雨・雪・雷によってもたらされます。その他根瘤菌の活動によって補給されます。リン酸は動物の死骸によって、カリウムは火山噴火や山火事などによってもたらされます。自然界でも栄養は必要ですが、ほんの微量で十分なのです。その他の微量要素も岩石の長年による風化などによって溶け出したものと考えられます。自然界の流れは人間には気の遠くなるほど時間のかかるものですが、コツコツと着実な働きです。しかし、どうしても栄養が足りないことがあるのです。そこで植物は助っ人を要請するのです。それが微生物なのです。微生物の仲間には種類によってさまざまなものを作り出す能力があり、食べるものも作り出すものもバラエティーに富んでおりかなりユニークな頼もしい存在なのです。私はなんとなく微生物が食べるものを追い求めてやってくるのではなくて、植物の方から呼んでいるのだと思います。田畑では人間が肥料をばら撒くので、微生物は無用の長物となり植物は呼ぶ必要がありません。ある聞いた話ですが、大豆を育てていて窒素肥料をたくさんあげたら根につく根瘤菌の数が減ったそうです。逆に無肥料にすると凄い数の根瘤菌がついたそうです。肥料を与えれば与えるほど微生物は住めないというより、住む必要が無いというわけです。逆に考えてみると、微生物がいっぱい来てくれれば肥料なんて必要ないのです。つまり無肥料農法は可能であるということです。目に見えない微生物たちの活躍によって地球は緑あふれたすばらしい星になれたに違いありません。
上の内容をふまえて、病原菌について考えてみましょう。私は病原菌も植物自体が呼ぶのだと思います。肥料の過剰で一部の微量要素の欠乏になり、助っ人微生物を呼ぼうとしても農薬の撒きすぎでやってこれない時など『このままでは動物が食べると危険な野菜になってしまうぞ』と植物自ら感じて、土に帰るために農薬の土でも生きられる病原菌を呼ぶのです。まあ、人間はそうはさせないぞとばかりにますます農薬を振り掛けるのですが・・・。病原菌はバランスの崩れた野菜を無害なものに分解して土に戻してくれるありがたい存在なのです。病原菌のメッセージに気付き、バランスの良い土に戻す努力と植物と微生物との共存がうまくいてようにお手伝いしてあげると良いでしょう。すると自然に誰もがおいしいと感じ、体の健康を保てるすばらしい野菜に育ってくれることでしょう。
人間が生きていくには実はそんなに食べ物は必要じゃない。口から食べ物(命)を頂いて、細かく分解され体内に取り込まれる。人間は食べ物を電気に換えて生きているのである。脳や筋肉はその電気によって動いている。でも、吸収された栄養分からどうやって電気を生むのかは私は知らない。微生物によるものか?化学変化のようなものか?まあ、とにかく誰もが人間は食べ物で生きていると思っている。私も小さい頃からそう思っていたし、「食べ物さえあれば生きていける。だったら、自分で作ればいいじゃないか。」という動機から農業を始めた。農業をしているうちに気付いたことがある。我が家ではもちもんうちで育った野菜を毎日頂いている。農薬も肥料もやらなくなってから、野菜に含まれる命の大きさに驚いた。なぜなら家族の食べる量が減ってきたのだ。「おいしくないから」が原因ではない。「むちゃおいしいけど減ってきた」のだ。少し食べるだけですぐお腹がいっぱいになるようだ。うちの玄米を食べだしてからなおさらのこと。茶碗いっぱい食べていたのが茶碗7分目になってしまいました。自然農法では人類を養えないのだと言っていた農業技術者の皆さんは農薬も肥料も使わない野菜たちの命の大きさには気付かなかったようです。現代人は食べすぎで食べ残しすぎです。体が喜ぶものを少しだけ頂けば生きていけるようになっているのかもしれません。でも、本当においしいものなら食べ残しが生まれるはずがないような・・・。飽食の時代なのに本物はなかなかないようです。命あふれる野菜で体を満たせば心も安定するでしょう。ここからは聞き流してください。最近、私は人間は食べなくても生きていけるのでは?なんて感じています。生まれたときからずっと食べてきたから「食べないと生きていけない」と勝手に思っているだけでは?仙人の話のようになってきましたが、きっと「かすみ」は宇宙に無限に満ち溢れている「気」のことをいっているのかもしれません。しかし、今はおいしい我が家の野菜を大いに味わいたいものです。やっぱり食べることは楽しいですからね。
私が農業を始めたのは単純に農業が好きだからだ。その思いに忠実に従ってきたからこそ今私は農業ができている。農業は自然と密接に関わりあっている。誰もが自然からの恩恵を受けて生きている。しかし、残念な事にその大切な自然が失われようとしている。人類存亡の危機である。農薬・化成肥料はいったいこれまで地球にどれだけの傷跡を残してきたのだろうか?悲しい事にいまだに農業の学校では農薬や化成肥料を使う農業を教えています。悲しいの一言です。私の畑では現在、無農薬・無肥料で野菜が育っています。農業の可能性は無限であると確信しています。常識だと思われていたことが真実とは限らないのです。何かどこかおかしいと感じる事は、きっとあなたの潜在意識からのメッセージなのでしょう。日本の自給率は40%らしいです。飼料や肥料も輸入しているので実際にはもっと低いでしょう。農業はこれから益々注目される事間違いないです。どんなに偉い人も金持ちも食べずには生きていけませんからね。私は百姓がドンドン賢くなってきているので、農業の未来は明るいと思っています。このかけがいのない地球を守っていくのは百姓(農業従事者)の使命だと思います。がんばれ百姓!!
「陰陽」って聞いたことありますか?要するにプラスとマイナスのことです。陰の食べ物は体を冷やし、膨らします。逆に陽の食べ物は体を温め、引き締めます。陰の野菜はナス・トマト・ピーマン・トウモロコシなどです。陽の野菜はゴボウ・ニンジン・イモなどです。(ダイコン・ハクサイなどの葉もの類は中庸。)皆さん気づいたと思いますが、夏の野菜は陰、冬の野菜は陽なのです。(太陽に近いものが陰、土の中に出来るものが陽とも言える。)自然は本当にうまいこと出来ています。暑い夏は体を冷やすものがなり、寒いときは体を温めるものがなるのです。旬のものを食べる大切さは、このことが関係しているのです。病気がちな方、食事を一度見直してみてはいかがですか。付け加えると、肉類・砂糖は極陰です。食べ過ぎると体が膨らみ、あらゆる病気の的になること間違いなしです。陰に偏るのも良くないし、陽に偏るのも良くない。要するに、陰と陽のバランスの取れた食事が一番良いのです。
昔から民間療法というものがありました。それらは、私たちが日頃、雑草として扱っているものが薬となるのです。スギナは農家にとって一番厄介な草です。しかし、最高の薬なのです。癌・糖尿病・肝臓炎・結石・腎臓病などさまざまな病気に効果があります。また。スギナの79%はカルシウムだと言われており、不足がちなミネラルを補ってくれます。私も、春になると毎年スギナを摘みに行きます。ハコベは春になるとたくさんの白い花を咲かせます。ハコベは盲腸炎・歯痛・歯槽膿漏に大変効果的です。独特のにおいを持つドクダミは、皮膚の腫れ物・蚊に刺された時にすぐ塗ると、いつのまにか腫れがひきます。草もちに使うヨモギは、切り傷にもんでつけておくとすぐに血を止めてくれます。このように、草の力は計り知れません。最近の医者は金儲けに重点を置きすぎているように感じます。「民間療法は邪道だ。」と言う医者も少なくありません。ところが、医者に見離された患者が、草の力で助かっているのです。身近に生えている草で、健康管理が出来るなら、素晴らしいことではないでしょうか。高くて、添加物だらけの薬を飲むより、草の力を借りてみてはいかがでしょうか。薬草について知りたいことがある方は、どうぞ気軽に質問してください。
なぜ草がはえてくるか不思議に思ったことありませんか。実は草にはすごい使命があるのです。土には酸性の土とアルカリ性の土とがあります。一般的には、中性に近いほうが植物は育ちやすいのです。しかし残念なことに、中性な土は少ないのです。特に日本の土は酸性に傾いています。(酸性雨の影響もあります。)ここで草たちが活躍するのです。なんと草たちは、地球の大地を中性の住みやすい土に換えてくれているのです。 スギナの生えている土は酸性だとよく言いますが、逆に考えてほしいのです。「土が酸性だからスギナが生えてこなくてはいけなかった。」と。そう、スギナは酸性の土を改善するがために生えてきたのです。自然は本当に素晴らしいです。スギナは2・3年抜かずにほっとけばなくなり、次にギシギシという草が生えてきます。ギシギシが役目を果たせば、次はナズナなどが生えてきます。こうして、他の植物たちが住みよい土に換えているのです。ただの草、されど草!地球に大地をより良くしようと耕し続けているのです。
野菜を生で食べる習慣は、ごく最近出来た文化です。なぜ、昔の人たちは野菜を生で食べなかったのだろうか?一つには、苦味やえぐみが火を通すことによってやわらぎ食べやすかったのでしょう。もう一つ考えられるのは、昔の人は草と同じく野菜も土をより良く改善するのに一役買っていることを知っており、土に含まれる毒素を吸収する野菜もあることを知っていたのでしょう。毒素とは、硝酸態窒素のことです。硝酸態窒素はほとんどの肥料に含まれ、これを含んでいない土はないと考えられます。ところが、硝酸態窒素は悪者ではありません。硝酸態窒素は植物にとって大切な栄養源です。問題は含まれている量なのです。(ほんの微量で死にいたることもあります。)化成肥料には硝酸態窒素がかなり多く含んでいます。植物はそれを主に葉に溜め込みます。つまり生で食べると危険な野菜は葉を食べる野菜です。(火を通せば、硝酸態窒素はなくなります。)有機農産物といっても安心してはいけません。大量に未発酵の有機物で栽培している野菜はかなり危険なのです。新鮮な生野菜は確かにおいしい物です。(私も畑でもぎってその場でよく食べます。)しかし、体がだるい・肩こりがひどい・冷え性が治らない人は一度食生活を思い返してみてください。もしかしたら、生野菜が・・・。
有機栽培・有機野菜。こんな言葉をよく耳にするようになりました。でも本当のところ、どういうことなのでしょうか?肥料に有機肥料のみを使い、もちろん農薬は使わない。まあ、これが普通です。ところが落とし穴がたくさんあるのです。まず、有機肥料といえば家畜動物の糞尿を乾燥発酵したものですが、家畜の飼料には農薬穀物・抗生物質・ホルモン剤などが含まれています。これらが肥料になっても残留している可能性はあります。また、家畜は過密度で飼育されているためかなりのストレスを感じているので、糞尿にも影響があるでしょう。次に種の問題です。どうしても全ての野菜を自家採種するのは困難です。そこで、種を種苗会社から購入することになります。種苗会社では、発芽率をよくする(病害虫からの保護)ために種に農薬をかけています。もうこの時点で無農薬ではないわけです。苗を購入している場合は、化成肥料も施されています。「それじゃぁ、有機農業は出来ないじゃないか?」と思いますが、そんなことはありません。育てる人の心が一番大切なのです。たっぷり愛情を注いで育てれば、食べる人を元気にする野菜が出来ます。「有機」という言葉に捕らわれてはいけません。「いつも野菜と心ひとつに。」これが野菜を育てるコツです。
「虫が食べているから安心だ。」これは本当なのでしょうか?もし有機野菜は穴あきだらけになるなら、誰だって化成肥料をばんばんやるでしょう。まず考えなくてはいけないのは、「なぜ農薬をふらなければいけないか?」です。これは皆さんご存知のように、虫がついて野菜が食べられてしまうからです。つまり、「化成肥料を施せば、虫がついて農薬をかけないといけない。」ということになります。だから、有機野菜が穴だらけになったらおかしいのです。虫たちは病気にかかった葉っぱや、人間が食べると良くない所を食べて無害な糞に変えてくれているのです。どこかで穴だらけで「有機野菜ですよ!」と売っていたら、「この人はあやしいなぁ」と思ってくれていいです。だだし、この世に完全な土は存在しないので、少しの虫食いはまぬがれません。人間も完璧な栄養バランスの取れた体をもってる人は少ないでしょう。だから、少しぐらい病気にかかることもあるのです。私は毎日、野菜に「食べる人を元気にしてくれよ。」と言って育てています。
この世はすべて波動によって成り立っています。波動とは振動の波のことです。テレビやラジオは波動のほんの一部を活用している例です。色も音もすべて波動です。目や耳や鼻は波動を受ける受信機なのです。波動と野菜の関係はどうでしょうか?育てている人と野菜の関係は非常に密接しています。育てている人が元気でご機嫌な時は、野菜は病気もせずすくすく育ちます。反対に育てている人が病気ななったりいらいらしている時は、育ちが悪くしおれたりします。また「野菜が枯れるのではないか?」「野菜が病気にやられるのではないか?」と心配するのも良くありません。さらに化成肥料や農薬を施す人は波動がとても悪くなるので、野菜が・・・。これらには、波動の高低が関連しています。この世では全てのものが波動を発し波動を受けています。お互い同士影響しあっているのです。野菜は色や香りなどによって波動を発し、鳥のさえずりや月光やもちろん育てる人の波動を受けています。野菜にある種の音楽を聞かせるとよく生育するという報告もあります。同じ条件で育てても育てる人によって味が違うのは、育ててる人の波動の違いなのかもしれません。
「類は友を呼ぶ」と言う言葉は皆さん知っていると思います。まさに、その通りです。「おなじ波動の人が集まる」と言えば分かりやすくなるかもしれません。怒ったり・妬んだり・蔑んだり・うそをついたりするととても波動が悪くなり、おなじように波動の悪い人や事が次々とくっついてきます。どんどん悪い方向へと落ちていってしまいます。「悪いことがおこりそうだなぁ」と心配すれば、波動が低くなって本当に悪いことが起こります。波動を上げるためには、直感やひらめきを大切にすることです。あとは、愛のある行動に励むことです。いくらでも例を挙げれますが、皆さん自身で感じ取ってほしいと思います。
有機農産物。つまり有機物を土に施して育てた野菜のことである。ところで有機物とはなんだろうか?牛糞・鶏糞などの家畜糞尿と油粕・魚粉・カキガラなどの工業副産物とがある。問題は家畜糞尿である。ホームセンターへ行くとさまざまな種類が置かれている。いったいどれが良いのかさっぱり分からない。まず知っていなければいけないのは、糞尿はそれを出す家畜の餌の内容に左右される事です。現在の家畜飼料の殆どは輸入に頼りきっています。農薬処理されたものや遺伝子組み替えのものもあります。いち早く家畜を太らせるためにホルモン剤、病気にかからないために抗生物質も添加されています。人間の薬は吸収されないで排泄されてしまう量まで計算して、服用量を多めに表示しています。つまり、家畜の糞にも吸収されなっかた添加物か含まれていることになります。これらの肥料を土に施すと殆ど分解される事なく蓄積されていく可能性かあります(環境汚染になります)。もし、どうしても使う場合は完全に発酵した(全く臭くなく、濃い土のいい香りがする)ものを使うと良いと思います。「なんとなく変だな〜」と思うものは土に与えない事です。油粕・骨粉も輸入物か結構あるので注意が必要です。また、油粕は土壌中に残留しやすいのでやり過ぎないようにしましょう。
草は無限のエネルギーを秘めています。しかし、ほって置くと野菜が覆われ育たなくなってしまします。そこで「抜く」でなく「刈る」をおすすめします。刈ってその草が生えていたところに置いておくのがよいようです。生えていた分では少ない場合が多いので、畦などを刈った草もその上に積んで置くとよいです。だいたい10cmぐらい積むと草が生えてくるのを防ぐことが出来ます。草は1本たりとも無駄にしないことが大切です。「かれくさ」より何故か「青草」のほうが効果があります。敷き藁などは風で飛んでいきやすいですが、刈った草は強風にも強く土で抑える必要はありません。草はミネラルの宝庫で、その土地に必要なミネラルを補給してくれています。草を積んだところには、微生物が発生し植物が吸収しやすいように分解してくれます。また、微生物が集まる所にはミミズがやってきます。ミミズは酸性の土を中和し、土の中に適度に空気を供給してくれます。草は人間よりもはるか昔から地球に現れ、大地を浄化するという重大な使命を持っているのです。私たちが生きていけるのは草のおかげかもしれません。
そんなものはありません。自分に合って、植物に合ったものが究極なのかもしれません。ここでは私 の目指す究極の農業を勝手に語ってみます。無農薬・無化学合成肥料は当たり前。そして有機肥料さえも与えない。私が与えるものは無償の愛だけ。あとは自然からの愛と宇宙からの愛を信じる事。断っておきますが放任農法には愛はありません。毎日出来るだけ声をかけて、手入れをしてあげましょう。必要なことは全てそろえられているのです、私達にも、自然にも。まずはそのことに気づく事かもしれません。実際私達は何かに頼らずには生きていけません。逆に何かに頼られていないと生きてはいけません。その両方がバランスよく無償の愛でつながった時初めて「共存」と言えるのではないでしょうか?
不耕起とはつまり「耕さない」ってことです。農業は今までより多く耕すことで収量を増やそうと努力してきました。しかし、それは土の中にすむ小動物たちを切り刻んでいたもです。私の畑も耕運機で耕している部分があります。ちぎれたミミズを見るたびに「すまない」と思います。確かに広い畑では不可能ではないが、不耕起は難しいと思います。でも、小さな家庭菜園では不耕起はとても楽しいものです。「土の中にはこんなにも動物たちがすんでいるのだなあ。」とさまざまな発見があることでしょう。また、土の表面を良く見るところころした土の塊が見つかります。それはミミズのふんです。植物の育ちやすい環境にするため土を育てているのです。不耕起には草の利用も欠かせません。刈った草を優しく敷いてあげましょう。刈った草はある程度すると、分解されて大地の一部となります。土の表面が見えてきた頃にまた刈った草を敷いてあげましょう。草は決して抜かないようにしましょう。なぜなら、土の生き物たちの棲家は草の根っこの部分だからです。耕しても耕しても硬くなってしまう土が、耕すのを止めたらふかふかになるでしょう。ただ、我慢が必要です。ふかふかになるまで、あなたが土を信じてあげる事です。その思いの強さがふかふかの土に変えてくれるでしょう。不耕起は忘れかけて大地の素晴らしさを思い出させてくれることでしょう。
我々の生活はとても便利になりました。これって本当でしょうか?便利になったと言うワリには皆とても忙しそうにしています。液晶テレビ・大型冷蔵庫・全自動洗濯機・パソコン・エアコン・・・。これらj自体はとても便利そうな響きです。しかしこれらはとても高価なものです。つまり、これらを手に入れるには働いてお金を稼がなくてはいけません。なんかとても不便だと思いませんか?よく考えてみればどれも本当に必要ってわけではないような気がします。購買意欲をくすぐるために企業はあの手この手といろいろ考えてきます。テレビは家族の会話を奪い、冷蔵庫は商店街の活気を奪い、全ての便利なものは私達から「人生」の大切な時間を奪っている。そして大切な地球を人類の住めない星に変えようとしている。農業も同じである。トラクター・田植え機・コンバインはとても便利だが、農家は永遠にそれらの借金のために働き続けなくてはならない。兼業となり、会社に勤めてまでそれらのための働く。本当に便利なのでしょうか?手作業で出来る小さな田畑では本当に食べていく事は無理なのでしょうか?便利さに心を奪われず、目に見えない大切なもののありがたさ忘れないようにしないといけません。
最初の頃、私は野菜に肥料を与える事を不思議に感じたことはありませんでした。野菜は肥料で育つものだと信じて疑いませんでした。化成肥料は土を硬くし、微生物のすめない土に変えてしまうので使わずにいましたが、有機肥料なら良いのだと思っていました。この2年ぐらい肥料を土に入れるたびに「何かおかしいのでは?」となんとなく腑に落ちないというか、胸にモヤモヤがたまった状態が続きました。「自然農」があることは前から知っていましたが、あまりに原始的で手間がかかり怠けの者の私にはとても続くものではないと感じていました。(とか言いながら少しやっています。)ところが微生物を活かす無肥料栽培が紹介されているサイトを見つけました。以前からEM菌は使っていたのですがその使い方の疑問も解けました。「微生物を撒くのはいいけど、その微生物の餌は与えなくて良いのだろうか?」ずっと疑問でした。詳しくは炭素循環農法のサイトをご覧下さい。世界を救う農法です。
無肥料の素晴らしいところを教えましょう。まず、環境破壊が全くない。何も田畑に入れないのですから、土壌汚染も水質汚染の心配もありません。次に、野菜・米の味が美味しい。自然の力だけで育ったわけですから本来の野菜の味が頂けます。アレルギーやアトピーの方にも安心しておすすめできます。そして、無肥料の野菜は非常に日持ちが良い。何故か少しの量で腹がいっぱいになり、精神的な安定をもたらす。私が思うには生命エネルギーが他の野菜に比べて多いのだと思う。農家にとってうれしいことは経費がほとんどかからない。堆肥作りをしなくてよいので労働時間が少なくて済む。野菜が病害虫の被害あわなくなり、なぜか草があまり生えなくなり、年々収穫量が増えてゆく(特に自家採種をした場合)。そして最後に、無肥料栽培は非常に楽しい。無肥料栽培は誰にでも始められます。特別な資材も技術もいりません。野菜と楽しく触れ合って、自然と共に生きてゆく素晴らしい方法です。
植物は根から水や養分を吸収して成長することは皆さんご存知の通りです。ところが土の中には根から吸収できる養分ばかりではありいません。逆に吸収しにくいもののほうが多いのが事実です。人間も同様で食べた物がすべて吸収されているわけではなく、いくら栄養たっぷりでも吸収されにくいものがあります。しかしご心配は要りません。ここで活躍してくれるのが微生物たちです。微生物は植物の根が吸収しやすいように物質を変換してくれるのです。他にも、根を病気からガードしてくれるありがたい奴もいます。残念な事に、最近では農耕地(田畑)の微生物が減ってきているそうです。原因はやはり農薬と化学肥料です。農薬は直接的に微生物を死滅させ、化学肥料は微生物の役割を奪ってしまうのです。「野菜が育つなら別に化成肥料でもいいのでは?」と思う方もいるかもしれませんが、根を守ってくれる微生物がいなくなるので、野菜が病気にかかりやすくなってしまします。そこで、農薬をかけるという悪循環が生まれます。ますます微生物は生きてはいけません。
微生物は人間が生まれるはるか昔から大地を守り育ててきたのです。植物と共存する事で今日まで生き抜いてきたのです。我々は微生物なしには存在し得ないのです。目に見えないほど小さな者たちですが本当の意味での「縁の下の力持ち」といえるのではないでしょうか?