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  20世紀の長屋の王、猫たちの物語

その6 <野良猫かあさんと子どもたち>

               


・・・縁遠くなったにいちゃんが通りかかるかもしれない。それに通りがかりのノラ猫たちの飢えを少しでも満たしてやれれば。私はいつのまにかドアの外にドライフードを置くようになった。猫たちがいなくなった暮らしのなかで、断ち切れない思いがあったのかもしれない。

 時々新顔の白いメス猫を見かけると思っていたら、近所で思いがけない話を聞いた。大工さんの資材置き場にノラ猫が子どもを生んでいるらしい、と。夜になると、母猫が子どもたちを連れてこっそり散歩に出てくるという。あのフースケが住んでいた小屋のことだ。
 夜半に気をつけて見ていると、なるほど、おぼつかない歩みの真っ白の仔猫たちが5匹、親の後を追っている。これは困った。母猫は私のところで栄養をつけて来るべき出産に備え、無事5匹もの子どもたちを産んだというわけか。
 子育て真っ最中の母猫は、これまでにも増してひんぱんにエサを食べに来る。もうコソコソなどしていない。仔猫たちの父親が誰かということも、まもなくわかった。歌舞伎役者のような顔をしているので私が「団十郎」と名付けた、半ノラのオス。私の部屋の隣の夫婦が向かいの国道側で食堂をしていて、そこでエサをもらっていたらしいが、何かの拍子にこちらに渡って来ている。その団十郎が小屋から悠然と出てくるのが、何度も見られた。

 子どもたちがしっかりしてくると、母猫がぞろぞろと子どもたちを連れてきた。さあ、おまえたち、ここがエサ場だよ、というふうに。団十郎とうさんだけが先に来て魚など見つけたものなら、「食べに来い」と小屋の方へ向かって猫たちだけに通じる声で鳴くこともあった。すると、母猫を先頭に競い合って仔猫たちがやってくる。
 母猫の子どもを守る本能は凄まじい。私がまだエサを入れ終えていないのに、耳を反り返らせ、眼をつり上げ、牙をむき出して激しい勢いで威嚇する。その形相で地を蹴って飛びかかろうとするのだ。私は恐怖を感じ、感動し、しかし情けなくてへなへなと倒れ込みそうだった。
 もう、小屋と私の部屋は命綱のような一直線で結ばれている。私は取り返しがつかないことをしてしまったと思った。この子たちが大きくなったらどうするのだ。半数はメスだろう。半年も経てば、母猫も仔猫もまた子どもを産む時期を迎える。今でも充分に近所で目立っていて、直接に苦情が持ち込まれないのが不思議なくらいだ。加速度的にノラ猫が増えていくことを想像すると、私の身体を戦慄が走った。
 

 どうしても捕まえて、避妊手術をすることに決めた。ノラ猫を獣医さんのところへ連れて行くこと自体、至難の技。しかし、私の周りには先輩たちが何人もいて、豊富な経験と道具(捕獲箱とネット)を持っている。時期が来るまで、彼らにできるだけ親しく接し、メスがどの子か見極めよう。
 やがて、一家の所在は小屋の持ち主の大工さんが知るところとなり、板壁をふさがれて放り出されることとなった。一家が移住したのは、猫好きの奥さんが住む裏手の家。そこにはやはり物置小屋があって、どうにか安全を確保できる。飼い猫用のエサもあった。
 そこからまた母子は、私のところまでやってきた。朝は裏の家でもらうらしく、日が暮れると、入れ替わり立ち替わりやってきた。中には少し人なつこい仔猫もいて、私が低い声で呼ぶとちゃんと現れる。その家族にさらに関係のない捨て猫も合流して、もう猫であふれかえるというありさまだった。その上、母猫そっくりのメスのノラ猫がもう1匹、近所にいることにも気がついた。かあさんと姉妹ではあるまいか。
 

 私の引っ越しの時期が迫ってきていた。これはモヤがいるときから考えていて、もうモヤがもどらないことを見極めた上での決断だった。
 まず、仔猫たちのおばちゃんを捕まえて手術させた。次にかあさん。しばらくぎりぎりまで待って中猫に育った仔猫も。ノラ猫が増えると必ず目に見えない手が毒を盛ったり、もっと別の方法を使ったりして、そのままでは置かないという冷酷な現実を見てきたから。そう心の中で彼女らに言い訳をしつつ。でももう私にできることは、それだけ。一家のその後まで見届けることはできないので、裏の奥さんに託すしかなかった。
 

 冷たい雨の降る1月、猫1匹連れず私はアパートを出た。
 

 
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