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  20世紀の長屋の王、猫たちの物語

その4 <野良猫にいちゃん>

               


 モヤが避妊手術を済ませた頃、オスのノラ猫にいちゃんが登場した。
 

 我が家は四軒長屋の小さなアパート。ドアに鍵をかけて出かけると、猫にとって自由な出入口がない。そこで風呂場の高い窓に、外から小さなハシゴを架けていた。風呂場の内側は、窓のすぐ下が浴槽。必ずフタをしておけば、これで安全に出入りできるというわけだ。
 父が2代目の新しいハシゴを作ってくれて、さあ、登り初めをしようとしたところ、風呂場に顔を覗かせたのはモヤではなく、白いオス猫だった。なんと外では、オス猫のご機嫌をとるようなモヤの声がする。
 モヤのために新調したハシゴがノラ猫の出入り口に。しかしモヤがまんざらでもないのを見ると、追い払うわけにもいかない。とうとう、風呂場の一隅で彼のためにエサを用意する羽目となった。
 人に心を許さない鋭い視線で睨み、まったくなつく様子もないが、初めてモヤが近所で見つけたボーイフレンド。「にいちゃん」と名付けて、風呂場までの入室を認めた。さすがの私もスプレー行動にはまいったので、それ以上は遠慮してもらった。
 仕事から帰ってくると、たいてい2匹はその辺で一緒にいる。モヤはひとりで留守番しているよりも、さびしくなさそうだった。例によってヤクザなモヤは、私が見ている前ではにいちゃんを小突き、見ていそうにないところでは「ウ〜ン」と甘えた声でついていった。そのうち、アパートの裏手に住んでいる猫好きの奥さんが、「その白い猫は小さいときに近所で捨てられていた」と教えてくれた。

 にいちゃんはオス猫なので、よくケンカをしてきた。顔に大きな傷をこしらえ、カサブタの下は化膿して見るも無惨な様子になる。モヤが事故で怪我をしたときに使った抗生剤が残っていたので、エサに混ぜて与えた。人間に手を触れさせない猫だから、この方法しかなかった。
 あるとき風呂場に行くと、浴槽のフタの上でにいちゃんの様子がおかしかった。大きく息をしてよろよろしている。エサを入れると、ガツガツとむさぼりつく様子が異様だ。ふだんは私を警戒して一定の距離をおかないと、食べようとしない。が、この日はなりふり構わず飢えに促されて食べているという風。
 どうも下半身がおかしい。上半身で身体を支えていて、ぐにゃりとしている。何があったのか、どうやってハシゴを上がってきたのか。外傷がなさそうなので、まるで見当がつかない。しかし、私がお風呂へ入る深夜、いつものようににいちゃんの姿はなかった。
 私はやがて、これが時々起こり、まったく歩けない状態に見えても数日間で回復して普通に走り回れるようになることを知った。それに、体力がどん底の状態になったとき、なぜかにいちゃんが警戒心をとくことも知った。浴槽フタの上でうずくまっているにいちゃんの、頭や背中を撫でることができた。ゴロゴロと喉を鳴らす音が、少しだけ聞こえたような気もする。夢中でエサにむしゃぶりつくのは、身体を一刻も早く回復させようとする本能が働いていたのだろうか。
 冬の夜、にいちゃんがフタの上から動こうとせず、入浴できないでベッドに入ることもあった。また、座布団にうずくまったままのにいちゃんを廊下に用意した椅子に寝かせて、その間にあわてて入浴するという夜もあった。体調が悪いそんな時は、黙って私に従っているようだった。

気がつけば、風呂場を猫と共用する生活が、当たり前となっていた。

 
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