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  20世紀の長屋の王、猫たちの物語

その2 <モヤとミーモ>

               


 毎朝同じベッドで目を覚まし、私がトイレへ立つとモヤも小さな砂箱へ。カサカサと砂を掻く音が、すぐそばのトイレにいる私の耳に聞こえる。1日の始まりである。そしてモヤを小さなバスケットへ入れ、助手席にそれを積み込んで、勤め先へと出発。初めの1週間は鳴き続けたが、気がつくとピタリと止んでいた。
 勤め先には、ミーモという、片方の眼が見えなくて人間で言えば少し発達障害のある猫がいた。
 子供の頃に、生死の境をさまよう大病をして1ヶ月ほど入院。そのせいか発情期も普通の猫よりはうんと遅く、1年以上も経って突然高い声で鳴きだしたときには、みんなお赤飯でも炊こうかという笑顔になった。
 だからミーモは、数ある猫のなかでも飼い主の奥さんにとって特別の存在。猫たちにとってもけんかやいじめの対象にならない、別格の存在だった。
 そこへ登場した子猫のモヤ。よく太った赤茶の大人猫ミーモには、小さな灰色の猫はネズミみたいなモノだっただろう。おもしろいオモチャがやってきたとばかりに興味津々。1日で友だちになってしまった。
 体力で勝ち目はないけれど、モヤは気の勝ったすばしっこい猫だった。遊びの主導権はあっという間にモヤが握り、ミーモはどてどてとついていくという格好である。
 

 事務所は新築してまだ日が浅く、暖房設備のあるコルクの床に壁はクロス張りという瀟洒な建物だった。そこへ好き勝手に猫たちが出入りし、一隅にはトイレもエサも置かれて、仕事をする人間と猫が同居している状態である。
 細くて身軽なモヤは、そのやわらかい壁がお気に入りで、調子づいてくると得意げに壁のぼりをやってのけた。爪を研ぐという生やさしいものでなく、90度の壁を天井近くまで登るのである。ミーモももちろん真似をした。仕事をしていて顔をあげると、2匹が上下に連なって鯉の滝登りよろしくのぼっていく。思わず奥さんと「アハハ」と笑いこけてしまうのだが、壁は穴だらけ。モヤは私の連れ子である以上やはり叱るべきだと思うのだが、「いいのに、また張り替えたらいい」ときわめて鷹揚な奥さん。
 グレーのクロス壁は、見る見るうちにはがれて中の板がのぞき、モヤのワルサは1階の事務所だけでなく、2階へ上がる階段周辺にまで及んだ。「誰やこの仕業は!」とだんなさんがたまに本気で怒り出す。でも、猫中心のこの家では、ほとんど迫力がない。すみません、ボーナスから天引きを、とかなんとか本気か冗談か区別がつかないような言い訳をしつつ、私はモヤを連れて行くことをやめない。だって、毎日連れてくることを条件に、私がモヤを飼うことを引き受けたんだもの。
 

 夜遅くまで残業することが、時々あった。だんなさんは設計の仕事をしていたので、いつも締め切りに追われていて、私も2階に上がって手伝いをするのである。
 モヤは私のそばのイスで寝て待つこともあったが、ミーモと外に出て夜遊びをすることも多かった。周辺は住宅が少なくて、公共の文化センターや体育館だったから、夜間は人の出入りがほとんどない。そこを縦横に走り回ったり、隠れたりするのがおもしろいのだろう。さあ帰ろうと思ってモヤを呼びに行くと、近くで遊んでいるのが見えたのに、とんでもない方向に走り去る。追っていくと物陰に身を隠す。私が絶対に置いて帰ってしまわないのを知っていて、わざとじらしている。ミーモはそんな事情を知らないから、モヤを連れてきてくれるわけでもなく、また、追っかける。
 最後にはだんなさんの手を借りて、もやの捕獲作戦である。それでなくともクタクタに疲れているのに、ヒトの気も知らないでよくぞ手を焼かしてくれる!
 

 ミーモはある日、前の路上で車にひかれてあっけなく死んだ。もしかしたら、モヤとおっかけっこをしていて、あとに続いたミーモがはねられたのではないか。誰も見ていなかったので、真相はモヤしか知らない。誰もが言葉にはしなかったが、私はずっと胸が痛い。


 
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