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  20世紀の長屋の王、猫たちの物語

その1 <出会い>

               


「ねえまりちゃん、何とかしようよ。お昼ご飯もわたし、のどに通らなかったわ」
「わたしも胸苦しくて、仕事なんか手につかない」
わたしと勤め先の奥さんとの、夕方の会話である。それが、もやもやしていた二人の気持ちを、一つの結論へと導いた。

 その日の午前中、仕事をしていてふと子猫の鳴き声に気づいたのは、わたしの方である。まさかと思って外に出てみると、事務所横の水道栓のそばに大きな紙袋が落ちている。わたしに向かって灰色のかたまりが走り寄ってきた。あっと声をあげそうになったわたしと、子猫の眼がぴたっと合ってしまった。かわいい。でも、とても拾ってやる訳にはゆかない。一度抱き上げてはみたものの、見てはいけないものを見てしまったような気分で、あわてて机に戻った。
 勤め先の奥さんは、猫飼いとしては町内でも知る人ぞ知る存在。そのために狙い撃ちされたということは充分に考えられる。すでに奥さんのところには、猫が5匹と犬が1匹。わたしの報告を受けて顔色を失い、奥さんはそのまま奥の住まいに引っ込んでしまった。
 そして子猫はというと、12月の寒空のもとで鳴き続け、時々ガラス戸越しに飼い猫たちのいるぬくぬくした事務所の中をのぞき込むのである。

「とにかく、家へ連れて帰る」と、わたし。
「そうしてくれる?」
寒さと空腹にふるえている子猫を、すでに暗くなりかけた路上に放っておくことはどうしてもできない。
 奥さんは慣れた手つきで、トイレ用の砂と箱、それにドライフードを用意した。そして、小さなバスケットを提げて外に出ていった。
 ああ、とうとうわたしはまた、猫を飼うことになるのか・・・ひとり暮らしの生活で、2匹の猫を死なせ、もう二度と飼わないと決めていたはずなのに・・・。
 そこへ奥さんが、拍子抜けした表情で戻ってきた。
「さっきまであんなに鳴いていたのに、どこを捜してもいないわ」
そうか、いなかったか。安堵感と落胆が同時にわたしを襲った。
「まあ良かったじゃないの。それならそれで。」
訳のわからない穴が胸にぽっかりと開いたような思いで、わたしは帰宅することになった。

 ところが、である。夜もまだ更けていない時刻、わたしの部屋の前で奥さんの声がした。
「いました、いました」
しっかりバスケットを抱えて立っている。バイクに乗せて走ってきたらしい。
 グレーのとら猫であった。よく見ると、短いしっぽがかぎ型に曲がっている。メスで生後1ケ月くらいか。かわいい顔をしているのに、このしっぽのために捨てられたのだろうか。
 小さなアパートの部屋の中、緊張していた彼女もすぐに好奇心を起こして、探検を開始した。猫飼いの大先輩の奥さんは、それを見届けてやれやれというように帰っていった。

 さて、名前もわからない子猫との、初めての夜である。ドライフードを少し食べたきりで、排尿をする様子のないのが心配であったが、できるだけそっとしておくつもりであった。彼女にとっては、生死を分ける長い長い試練の一日だったのだから。
 ベッドのそばに子猫の入ったバスケットを置き、わたしは電気を消した。ほどなく、子猫がベッドによじ登ってくる気配がした。そしてわたしの身体の右側に寄り添って、丸くなった。顔を向けると、黒々とした眼でこちらを見つめているのが、闇の中でもわかる。
 と、やわらかいものがわたしに頬に触れた。ぽてっとやわらかい子猫の手が、わたしの頬におかれているのである。実にやさしい感触だから、じゃれているのでも、引っ掻こうとしているのでもない。手を当てたまま、まじまじとわたしの眼を見ている。
――これが・・あたしの・・あたらしい・・おかあさん
それはまるで、子猫とわたしが一緒に暮らすための、ひそやかな儀式のようであった。
 翌日から、この子猫同伴の「子連れ出勤」が 始まった。名前は猫友達が、「もや」と付けてくれた。


 
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