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  戦争が終わった日に


 私が生まれたのは、戦争が終わって7年目のこと。父と母は戦後まもなく結婚し姉が誕生、私は次女として生まれた。姉妹ともに昭和20年代生まれだが、当時のアルバムを見ると、姉の世代は戦後の貧しさを色濃く残している。私はというと、小学生時代はすでに30年代に入っていたから、衣服も食べ物もヘアスタイルも生活の安定の兆しを感じさせるものだ。
 
 ラジオしかなかった時代(テレビは小学校6年生のとき)、両親は私たちに繰り返しそれぞれの戦争体験を語った。父は戦争末期南方へ徴兵され、通信兵として働いた話。母は、大阪の軍需工場で働かされ、「女子挺身隊」なるものに所属し軍事訓練(教練?)も受けていたという話。
 男女の置かれた立場の違いはもちろんだが、決定的な違いは父には軍国主義への肯定、母にはやりきれない厭戦気分があったことだろう。
 
 父は根が真面目な人であったから、当時受けた教育になにひとつ疑問を持たず戦争に行き、戻ってからもそれを人生の一番輝かしい思い出のように信じて疑わなかった。父には7人のきょうだいがいたが、ひとりとして戦死者を出さなかった稀な家庭だった。自分自身も、戦地へ赴くとき母と婚約し無事に戻ってこられたわけで、喪失の悲しみはなさそうに思えた。
 
 一方、母はまだ子供だった私たちに、一番楽しいはずの娘時代にもんぺをはかされて、空襲があれば防空壕へ逃げ込む日々、周りの若い男たちはみんな戦争に行ってしまい、あんなひどい時代はなかったと。命が危険にさらされた場面も、何度もあったという。伝えておかなければという気負いはなく、それが普通の母子の会話だった。その当時住んでいた家の庭隅にまだ防空壕が残っていたことも、話に現実味を与えていた。
 
 そういうわけで、正反対の考え方を持った両親の間で育った私たちきょうだい3人。父の影響はまったく受けず、今よりも高い理想を掲げていた戦後教育のおかげもあってか、批判精神はみんな身につけて成長したように思う。
 父と母の生々しい体験談が私たちに戦争について考える機会を与え、その後の読書や見聞がさらに広い視野を与えてくれたと言ってもよいだろう。あの戦争でおびただしい命が失われた事実を知ると、二人が生き残ったことはたまたまの幸運であったということにも思い至った。
 
 その父も母も逝った。晩年までテレビや新聞のニュースを見るたび、戦争について本気で口論をしていた父母。同じ時代を生きて、半世紀いっしょに暮らしても、譲れなかった思いとは何だっただろう。母は、私が戦死者への思いを詩に書いたとき、内心不遜なことをしたような気もしていたが、涙が出たと言って共感してくれた。子供たちに本を読めと言い続けた母は充分な教育を受けていなかったものの、権威主義を嫌い、ウソを見抜く眼だけはしっかり養っていたようだ。



 これら、戦中戦後を生きた父と母の、子供たちへの贈り物。
贈り物は、私たちに託された時代の証言であり、次世代へのメッセージでもあるだろう。

 戦後59年を経過して、歴史に学ぶ姿勢がおそろしく希薄になってきているという実感がある。日本の憲法は大きな犠牲の上にようやく獲得した、人類に普遍的な理念だと私は考えている。ところが今、自衛隊の存在が憲法違反か否か問われた時代を過ぎ、既成事実が積み重ねられた末、海外派兵のため9条が窮屈だから取り払おうという動きが顕著になってきている。ささやかであっても私たちが発言し、若い世代に伝えていかなければ、普通の国民の願いとはかけ離れた方向へ進んでいく危険な動きを止められないのではないだろうか。

 この6月、日本の知性と良心を代表する著名な人々が、「九条の会」を結成した。戦争体験世代として行動せずにはいられないという、切迫した気持ちがあってのことと思う。私も日本の進路に危機感を抱いているひとりとして、たいへん共感している。
 立場の違いを超えて、同じ思いの人々が勇気を出して意思表示しなければいけない時期に来ていると思う。この文章を書き始めるにあたって、九条の会の存在に背中を押される気持ちがしている。


                          (2004年8月15日)

 
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