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  書けなかった追悼文の代わりに


 伴さんはどこにいるのだろう。とつぶやいてみて、もちろんあの天満の屋根裏部屋のような事務所にも、天王寺の一心寺にも、まして大阪の街のどこにもいないのだという、ある不思議な感慨に打たれる。
 
思い出せば、声はいつも聞こえてくるのだ。地方に住んでいるとはいえ、20数年の間に何度も会っているのだが、私にはやはり声や文字が伴さんそのものだ。もっとあらゆる場面でかかわって生身の伴さんを知る人からすれば、それは決して実像ではなく、かかわりの浅かった者にとっての都合の良い虚像なのかもしれない。
 が、10代の終わりから30代後半までの、最もみずみずしくこころを震わせることができた季節を、その時々の手紙や電話で伴さんに正直に見せてきた私には、他の人間関係には置き換えられない特別な意味を持っているように思う。

 手紙は何百通書いただろう。書いた手紙の数だけ返事が来て、その何倍もの回数で届いた手刷りの通信物。破れそうなくらいに目一杯詰め込んだ封書が届くと、なかなかすぐには読めず負担に感じることもあり、その中から手紙だけを引き出してとりあえず先に読むという時期もあった。
 あのワラ半紙とガリ版刷りは、正しく時代の産物という気がする。伴さんの呼吸や鼻息まで伝わってきそうで、「伴は女が好きだから、近文の女性同人には親切にする」、まるで男など知らんと言わんばかりの宣言が当たり前のように載ってあるところは、痛快でさえあった。
 反発を感じることもあったし、打ちのめされることもあった。ただ、ひとの苦境には敏感で、普段は突き放して眺めているのに、一番辛い時期にはすうーとこちらの気持ちに並んでくれる人だったと思う。それはやはり、伴さん自身の孤独がそうさせたのかもしれない。とは今になって思うことだ。

 たまにかかってくる電話は、たいてい「こらー、何やってんや!」というたぐいの名前も名乗らない乱暴な第一声だったが、こちらが電話すると意外にひっそりした口調で応えてくれた。電話される方はたまったものではないが、深夜思い余ってめそめそ泣いたこともある。また、可愛がっていた猫が死んでしまって、と言ったときも一笑に付されると覚悟したが、思いがけなく「生き物を飼うとなぁ、それがあるから・・・」と、私の気持ちをいたわってくれた。
 
 私のひとり暮らしがさらに長くなった。伴さんのようにひとりをよしとする潔さはないが、結果的には同じような時間を生きている。(もちろん、肉親のつながりはそれはそれとして受け入れながら。)昼間のあわただしさや、賑やかさとはまるで異質の、眠りの前の時間。ふと伴さんのことを思い出すと、孤独を分かち合っているような気分になる。孤独だったから止まるのが不安で、走り続けたのだろうか。
 あえて極端に言えば、私は伴さんに誉めてもらいたいがために詩を書いてきた。伴さんの存在そのものが、私の詩の原動力だったのだ。が、今は師というより同志。背中しか見えないが、時々やさしい声で語りかけたい。「そちらからこちらが見えますか?」と。


                   (1996年 リヴィエール30号より)

                                


 
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