top
  リウマチとともに


発病35周年

               


 誰も祝ってはくれないが、発病してこの冬(2002年)でちょうど35周年を迎えた。人生の3分の2以上の時間を、リウマチとつき合ってきたことになる。同じ病気になるにしても、もう少し発病が遅かったらという気持ちは今もある。35年前の治療法は今と比べものにならないレベルだったし、私自身がまだ子供だったから、病院や治療法を選ぶことができなかったという残念な思いがあるからだ。
 中学2年生の3学期に発病して学校を休みはじめ、3年生はほとんど出席できなかった。やがて良くなって復学できると信じて、家でこつこつ教科書を勉強したりしていたが、薬剤の副作用が出て入院。以来、退院、再入院で学校とはついに縁のない者になってしまった。両親が義務教育すら満足に終えられなかったのを不憫に思い、校長に頼み込んで1年遅れの卒業証書を発行してもらった。両親はありがたいと思っていたようだが、私は大人になるに従い、体よく義務教育から放り出されたという気持ちが強くなった。
 当時、訪問教育の制度も病院内学級の制度もまだなく、難病の子供に対する教育の保障は全くといっていいほどなかったと思う。ただ本人の努力と、家族の献身的な援助に任せられていた。恵まれた条件にあった人はその頃でもなんとか勉学の機会があったかもしれないが、私の家庭は両親ともに家業に忙しく、病気治療だけで精一杯だった。夜間高校を受験しようとしたときも、父が交通事故で大けがをしてその機会を失った。
 高等教育を受けられなかったことは、のちのちの就職にも大きなかかわりを持ち、安定した職業に就けなかったことは私の人生をかなり決定的なものにした。もちろん私の努力も足りないのだろうが、25年以上働き続けてきてなお、発病の頃の挫折感の延長線上にある人生だな、とこの頃しみじみ感じる。
 年頃の娘だった人にはその人なりの、また妻であり子供の親となっていた人にもその人なりの苦しさや悔しさはあるだろう。発病はどの年齢の、どんな立場の人でも、言葉には言い尽くせない無念さがある。
 そこから始まって、延々と続く闘病生活。どん底の時期ばかりでなく、好調で病気を意識しないで動ける時期もあるが、長い病気の末、ほとんどの人が障害者となることから免れない。病気による苦痛と、運動機能の障害をあわせ持つのだから、まったく欲張りな病気だ。
 60歳で亡くなった友人のお母さんから、先日こんな言葉をちょうだいした。「これからが、正念場やで。」病気の娘を長年見守ってきて、すべて見えているのだろう。果たして私、次は発病何周年を自分で祝えるだろうか。

 
 index back next