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平成30年度  第3回  ふるさと講座

河芸町

平成30年10月4日

 一色八雲神社(ざるやぶり神事)
  一色八雲神社の主祭人は、須佐之
男命です。当社伝によると戦国期に近
江源氏の子孫三井治郎左衛門高次と
その子高治一族郎党が当地に来り、
当社を創建したとされています。
 ざるやぶり神事は、よまし麦のざるを
奪い合ったありし日をしのぶ意味で行
われるようになり、豊漁と安全を祈願
する祭となっています。毎年7月15日
の夜には、この神事の奉仕者である裸
男たちによって、繰り広げられています
 松林寺
 少林寺は、真宗大谷派に属し、本尊
は阿弥陀如来立像です。当時は天台
宗に属していましたが、室町時代中期
真宗高田教団に転じました。しかし江
戸時代初期に派内のトラブルから同派
を離脱し、真宗大谷派に転じて現在に
至っています。
 本尊の阿弥陀如来蔵は、本堂須弥壇
上三方開きの厨子に安置されています。
一木造り漆箔仕上げの高さ96cmの立
像です。
八角型回転式経像(輪蔵)
 経像(輪蔵)は、経典を整理保存する
宝形作りの建物で、内部は経典を収納
する八角型回転経像が設置してありま
す。八角それぞれの面に観音開きの戸
がついた書家があり、回転させて経典
が選択できるようになっています。
 この経像は、江戸時代末期、当時の
住職順融上人により建てられました。正
面に聖徳太子像を安置し、他の書架に
は約二千冊の一切経が収納されています
 マリーナ河芸(田中川千潟)
 伊勢湾へと注ぐ田中川の河口右岸に
は、伊勢湾中部唯一の大きなアシ原の
広がる千潟があります。海水と淡水が
混ざりあう河口付近の千潟には貴重な
動植物が生息しており、その数はおおよ
そ300種ともいわれ、まさに生物の宝庫
です。塩性植物のハマサジとハママツナ
の群落が見られ、全国的に数少ないヤ
マトマダラバッタの生息地にもなっていま
す。伊勢湾の中でここが北限の自生地と
されるハマボウの古木があり、7月から8
月にかけて大きな黄色い花をつけます。
  尾前(おざき)神社
 尾前神社の主祭神は、速差須良比命
です。平安時代中期に作成された延喜式
神名帳に記載されている古い神社で、垂
仁天皇18年勅命により、現在の千里ヶ
丘南の中尾前に真殿が建てられたと伝え
られています。
 現在のお前神社には、正長2年(1429
年)を始めとする古棟札が数多く保存され
ています。
殺生を禁ずの石柱
  尾前神社の参道東側の石積みの台上
に「禁殺生」側面には「享保丙午」と彫って
あります。享保丙午は1726年で徳川幕府
の将軍吉宗の時代です。吉宗のいとこであ
った吉直は、享保11年(1726年)紀州藩
の寺社奉行に命じて尾前神社にこの石柱
を寄進しました。


獅子舞神楽「津市指定無形民俗文化財」
 この獅子頭は、平安時代末に伊勢国内
に悪疫が流行した時、朝廷ではこれを深く
憂い、病魔退散祈願のため、獅子頭数口
を造り、尾前神社をはじめ近くの酒井神社
稲生神社にも奉納しました。承安4年(117
4年)のことで、この獅子舞祈祷によって病
魔はたちまち終焉したといいます。
亀窯冠(かけかまかぶり)地蔵堂
  亀窯冠地蔵堂は、東千里の北の入り
口、近鉄踏切の東にある地蔵堂です。
この堂はもと光明院といって伊勢参宮の
旅人の休憩所で旅の無事安穏を祈願し
た場所です。
 宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤
と宝珠を置くのが普通ですが、この堂は
炊事用の窯と水甕が伏せてあり、非常に
珍しい形式で堂の名前が由来となってい
ます。
  定光寺
  定光寺は、真宗高田派に属し、本尊は
逆手阿弥陀如来立像です。もとは浄光山
大徳寺と称する真言宗寺院で、七堂伽藍
を備えてていたといい、小字名「御絵堂」
は名残といいます。しかし、彌尼布理神社
所蔵元亀3年(1572年)棟札、「本願大
徳寺住藏僧文真藏主」との記事があるこ
とから、大徳寺は禅宗であって、16世紀
後半まで存続していたようです。
  彌尼布理神社
  彌尼布理神社の主祭神は、宇迦之御
魂命です。当社伝によると、創建は大同
元年(806年)に設置された東海道観察
使が当地を巡視した際に、稲の神を祀っ
たことに始まり、『延喜式神名帳』に「彌尼
布理神社」と搭載されたといいます。
  その後天暦10年(956年)北黒田北方
の山上に社殿を新築したので「峰振神社」
と呼ぶようになり、さらに寛弘3年(1006
年)鶴が社殿を上空へ飛来し稲穂をおとし
たので「穂落神社」、嘉承元年(1106年)
には村から疾病を振り払ったので「稻振
神社」と称するようになったといいます。








第二柘植訓練所跡
  昭和8年(1933年)文部省は、柘植
訓練所の制度を設け、満蒙(現在の中国
北東部・内モンゴル地区)移植民の教育
訓練施設を全国2ヶ所、南米移植民の施
設を1ヶ所建設しました。
  このうち、満蒙向けの第二柘植訓練所
が三重高等農林学校(現三重大農学部)
に付設され、その実習地と寄宿舎に久知
野と鈴鹿市郡山町にまたがる十余町歩の
土地があてられました。