戻る

平成29年度 第3回 ふるさと講座

初瀬街道③「大仰~宮古」
平成29年10月5日(木)



今回は、初瀬街道シリーズ、パートⅢとして、前回の初瀬街道の最東部
の六軒から中川までの区間に続き、大仰から宮古間にある笠置地蔵、
誕生寺、華香寺、大仰有料橋、成福寺、JA郷土資料館、八太宿・土塀の
ある家・八太の七曲がり・班光寺・道標、宮古の土蔵・忘れ井などを
見学してきました。


 笠置地蔵
 1443年のお話、宝珠丸(真盛上人)
が7歳の時、下男が宝珠丸を笠に乗せ
て権現淵で止まった。その時、川口光
明寺の盛源坊が通りかかり、子どもが
笠に乗ったままお経を読んでいるのを
見て、宝珠丸を拾い上げ自分のお寺
で育てた。また流れ着いた淵の大岩に
、お地蔵さんを刻んでお祭りをし、笠に
乗って流れ着いたことから「笠置地蔵」
と呼ばれるようになった。
  誕生寺
  華香寺が明治5年廃寺になったのを
残念に思った伊賀・西蓮寺の山主が明
治14年に華香寺の本堂を真盛上人の
実家小泉家のあった場所に移転増築し
、上人が誕生した地にちなんで、誕生
寺と名を改めた。本尊の阿弥陀如来
座像とともに、華香寺の本尊であった
阿弥陀如来座像が祀られている。
 境内一帯は、昭和13年に三重県史
跡に指定され、その一角に真盛上人の
誕生にあったて使われたと謂われる
「産湯の井戸」がある。
  華香寺跡
 
真盛上人が伊賀にある西蓮寺で亡く
なった1495年、白山町成願寺の初代
上人が、真盛上人の徳を後生に残そう
と建てた。
 明治5年に、無壇無住のため廃寺と
なった。
  華香寺前の道路は、1921~42年
に運転が行われていた中勢鉄道の線
路跡で、そこにはプラットホームのコン
クリートの一部が残っていました。
 大仰有料道路
 
今はその痕跡すら残っていないが、
古文書によると最初に橋が架けられた
のは、1677年頃で竹や丸太で造られ
ていた。その橋を村人が管理し、橋を
渡る人から金を取っていたようです。




  成福寺・薬師堂
  真盛上人の叔母・盛善尼が、1452年
建立した寺である。真盛上人の供養塔、
上人の両親と盛善女の墓がある。これら
の墓石の背後には、樹齢が約300年と
いわれるイス(柞)の巨木が生えている。
  本尊は小泉家伝来の念持仏とされて
いる阿弥陀如来立像。薬師堂には、平
安時代の作とされる本尊・薬師如来座
像が祀られています。
  JA郷土資料館
昭和60年に一志町農協が郷土資料
館を開館し、その後、平成13年1月に「
三重のまんなか・まちかど博物館」に指
定され、地域農業を学ぶ格好の施設と
なっています。養蚕・製糸、農林業、生活
用具に加え一志町の歴史関係資料(旧
石器時代の掻器やナイフ形石器、縄文・
弥生時代の石鏃、石錘や石包丁、白鳳
時代の古瓦等)を展示。

土塀のある家(八太宿大庄屋
               ・田上家)
 
八太城を築いた田上玄蕃頭の孫八
太夫は、1,653年津藩郡奉行山中兵
助為綱ともに高野井を築き、高野村外
ハヶ村(田尻・八太・片野・日置・庄村・
其村・須賀瀬)に雲出川の水を灌漑し、
旱害の憂いを断った事蹟が今に伝わ
っています。伊能忠敬が測量の旅で、
1808年12月26日に宿泊した。
班光寺
  江戸時代になって1728年に住職が
「班光寺勧化序」を配り広く資金を集め
て、現在の一志東小学校校庭の南西隅
の初瀬街道沿いの地に本堂を再建し、
日出山班光寺と改称されました。
  1989(平成元)年に寶善寺境内に移
築された。秘仏木像大日如来像をはじ
め、室町時代末期の絹本着色十六善神
画像、江戸時代の本尊・金剛界大日如
来像などがある。
  宮古<飾り瓦・蔵飾り>
 集落東部から北側を西に向かって初瀬
街道が伸び、それを軸に宮古の道は狭く
入り組んで巡っている。
  この狭い路地を歩くと、蔵を持った立派
な家屋が多く建つ。蔵の窓の飾り瓦には
龍や鶴亀、唐獅子等の細工が、その下
には水害から家を守るため、また火災予
防のために龍を題材にして彩色された漆
喰鏝絵の飾りが施されている。塀や屋根
飾られた置物も厄除けや開運を願っての
狛犬、大黒さん、鯉の滝登り、唐獅子など
が多く見られる。
  忘れ井
  宮古を代表する文化財で、鳥羽上皇
の1108年に白河天皇の皇女、 子内
親王は46代斎王に卜定された。3年後
伊勢へ群行の途中で、この地で井水を
求められた。内親王は井戸の水に映っ
た自分の姿を見て、都への思いを断ち
切ろうと、「わかれゆく 都のかたの恋し
きに いざむすび見む 忘れ井の水」と
歌を残した。この歌がもとになり「忘れ
井」の名がつけられた。