川 北 城 跡

(大里川北町かわきた苑内)

歩き方

JR一身田駅を出て右折(東南側)する。
直ぐに十字路があるが直進する。横切った道が伊勢別街道。
(この十字路を右折して約200メーター進むと十字路があり左前方に一身田小学校があり、この角に伊勢別街道の案内板がある)

直ぐに変形十字路があり左折する。右側は小川と高田本山専修寺
県道”津ー関線”の交差点があるが、真っ直ぐに進む。右側は高田高校。
自動車が多い割に道が狭いので歩く時には注意が必要。
志登茂川の橋を渡り主道路の通り進むと、右側に高田短期大学の入り口が見える。
坂道になるが少し進むと左側にかわきた苑の入り口がある。
かわきた苑に入り坂道を登る。頂上付近の十字路を左側に曲がり少し進む。

ここが川北城跡である。
城跡には山茶花の木が多くあり、12月初めに行けば花が綺麗に咲いていると思う。

近くに久善寺、仲福寺、窪田常夜燈がある。
JR一身田駅から10分もあれば行ける。

写真撮影は2001年1月4日
案  内  板 川 北 城 跡 石 碑
川北城跡全体を見る 川北城跡よりかわきた苑を見る

案内板には下記の記載がある。

 川北城は、文永11年(1274)、長野工藤氏の与力川北氏によって築かれたといわれている。
 城は、東海道から関で分かれて津に至る伊勢別街道が平野にかかる地点を見下ろす台地上にある。
台地の南西斜面に土塁・空掘・郭などを築き、その背後の丘陵上に居館を配し、  その面積は25000m3に及ぶが、現在多くの部分が住宅団地となっている。
 昭和53年・59年にほぼ全域が発掘調査された。その結果、堀や土塁・柵列で区切られたいくつかの郭を形成し、その中に多数の堀立柱建物を配しているというきわめて計画性を持った城であることが明らかにされた。
 出土遺物は、山茶碗・山皿・鍋・釜などの日常雑器の他、青磁・白磁など中国から輸入された高級陶磁器も出土している。
川北城の盛期は13世紀末から14世紀中頃にあり、鎌倉時代から南北朝時代にわたる地方武士団の生活様式を示している。

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