佐和山城〜破城のあと
−冶部少に過ぎたるもの…その一つ、その城跡−

大手口(鳥居本側)から佐和山を望む 佐和山山頂の本丸跡
本丸東下に残る天守台の石垣 本丸からの金亀山(彦根城)と琵琶湖
名称:佐和山城
所在地:彦根市古沢町、佐和山町
標高:233m(佐和山山頂)  
比高:148m
築城〜廃城時期:12世紀後半〜17世紀初頭

探訪日:2011年8月11日(@)、20日(A)
天候:晴れ(@)、雨(A)
コース:@龍譚寺〜本丸〜千貫井〜法華丸下〜国道8号佐和山トンネル西側、A鳥居本大手口〜(近江鉄道横断)〜佐和山手前まで

佐和山城概要図
【佐和山城の歴史】
@鎌倉初期に、佐々木定綱の六男六郎時綱が麓に館を構えた。
Aその後、六角氏と京極、浅井氏との間の境目の城として攻防が繰り返される。
B「元亀元年の佐和山合戦」
 姉川の合戦に破れた浅井氏は、小谷城と佐和山城に分かれ再起を図る。織田信長は、小谷城に対しては横山城に木下藤吉郎を、佐和山城には東の百々屋敷(鳥居本)には丹羽長秀、北の磯山(または物生山)に市橋長利、南の平田山(または里根山)に水野信元、彦根山に河尻秀隆を配した。
 城を守る浅井方の磯野員昌は良く守るものの、結局降伏。
Cその後、丹羽長秀が佐和山城に入った。丹羽長秀は安土城築城の総奉行を務めた。本能寺の変、清洲会議の後、堀秀政、次いで堀尾吉晴が入った。
D石田三成は天正19年(1591年)に入り、湖北19万4千石を与えられた文禄4年から城を修復し、本格的な城に完成させた。
E関ヶ原の合戦後、小早川秀秋、井伊直政、田中吉政が佐和山城を攻め、包囲された奮戦したものの石田正継(父)、正澄(兄)は自決した。塩硝蔵に放たれた火は天守などにも移り灰燼に帰した。
F慶長6年(1601年)井伊直政が城主となるが、直政の死後、新たな城を佐和山と磯山、彦根山(金亀山)の中から、彦根山が選ばれ、慶長11年(1606年)に彦根城が完成する。この際、佐和山城は徹底的に破壊され、その歴史を閉じた。
(「近江戦国の道」淡海文化を育てる会編より)

 

 はじめに、冶部少(石田三成)に過ぎたるものとは、二つの場合と、三つの場合がある。

いずれにも、「佐和山城」と「島左近」は含まれ、もう一つは「百間橋」という。
 「佐和山城」はこれから記す五層の天守を有していたといわれる壮大な城、「島左近」は近年は、しまさこにゃんとしても人気のある島左近、大和筒井氏の家臣であったが近江水口4万石の岡山城主だった石田三成が禄高の1/2の2万石で家臣に迎えたといわれる。
 そしてもう一つは、「百間橋」。龍譚寺の前に広がる松原内湖を小島をつないで、長さ百間(約540m)、幅3間の橋が百間橋で、昭和初期の古写真が残されている。

 佐和山城は、石田三成の居城として有名となったが、その歴史は上記のように鎌倉時代から始まり、戦国の世には「境目の城」として、江南の六角と江北の京極、浅井氏の攻防の城となった。そして、元亀元年の佐和山の合戦に移っていくのである。

【探訪記 その@】
 龍譚寺から登った。

龍譚寺山門(ここから登る) 堀切(鳥居本への分岐)
塩硝蔵跡 本丸跡(頂上)

 案内図を見ると、山頂部の本丸を中心に、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが尾根上に拡がり、建物や石垣はないものの、さすがに石田三成の居城であったその規模が窺える。

 ただ、残念なことに、この城跡は規模が大きすぎるのか、これまでに行った他の山城に比べると整備がいまいち。龍譚寺〜本丸〜国道8号へはルートは整備されていたが、鳥居本からの道は途中でわかりずらく、太鼓丸、法華丸など派生する曲輪への道はほとんど不明だった。

彦根山が低い。山城から平山城へか? 本丸跡
本丸東下の石積み 千貫井戸(今日は枯れていた)

 本丸から眺める彦根市街、彦根城そして琵琶湖の眺めは素晴らしい。ここに5層の天守があったのか。尾根上の櫓を従え、さぞや立派であったろう。関ヶ原の合戦後、そのさぞや財宝があるであろうと徳川軍の兵士が乱入したところ、城の壁は粗壁で、何の装飾もなく、質素な造りで、まして財宝など…ということであったらしい。

 本丸東下の石積み以外に、近年、別の石積みも発見され、井伊家7代直惟の時代に行われた聞き取り調査「古城御山往昔咄聞集書」によると「石田治部少輔殿城郭天守普請」「本丸之上石垣壱丈五尺其上ニ五重之天守」の記載があり、それを裏付けている。(「近江の山城ベスト50」中井均編)

 また、本丸下には「千貫井戸」がある。山城においてこの井戸の価値は千貫に値することから名づけられたもので、今日は落ち葉に隠れてか水面は見えなかった。

 法華丸あるいは太古丸へ行こうとしたが、倒木や藪で断念、表示板もなく、よくわからない。
法華丸下の竹林の道を通っていくと、現代へ。車が往来する国道8号脇に出た。

【探訪記 そのA】
 日を改めて、本来の佐和山城の正面、大手口になる鳥居本へ。

 佐和山側案内板の概要図

 国道から外れるとすぐに佐和山城大手口の標柱と案内板があった。それによると、

 佐和山城は、東山道(後の中山道)側を正面とし、ここに大手門が築かれ、左右には土塁が伸びていた。大手門は彦根市内の宗安寺の表門(赤門)と伝えられおり、左右の土塁は今も残る。
 土塁の前の現在の川は当時の内堀で、もっと広かったようです。
 この内堀と土塁に守られ、背後の佐和山から左右に伸びる尾根に囲まれた広い地の登城道の両側に侍屋敷が広がっていたという。
 一方、内堀の外には町屋が広がり、それは外堀(現在の小野川)を越えて東山道あたりまで及ぶ規模だったといわれ、往時の繁栄の度合いが偲ばれる。

正面に佐和山城 内堀跡の小河川と土塁(鉄塔の向こう)

 小雨の中、佐和山を目指して真っ直ぐな道を進み、近江鉄道を横断してさらに佐和山麓まで歩いたが、道が不明瞭となり引き返した。

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