53)力石を詠む(十二)

神社の境内に見る力石。 あれは、素手で持ち上げて力比べをして、神様を楽しませたのだろうね。
石は何処から運ばれてきたのか不明。 力自慢大会で勝った男の名前も不明。
力石は寡黙にして語らねど、後世の俳人に想像の機会を与えてくれている。
わが国に遺された数少ない石の文化である。   八木 健(滑稽俳句協会会長)

52)力石を詠む(十一)

「力石の時代」目をかっと開き、重心を低くした姿勢で、満身の力を込めて力石に手をかける。うなるような短い声と共に姿勢が変化し、石が持ち上げられる。額に汗がにじみ、筋肉が盛り上がる。どよめきのあと歓声が上がり、張り詰めた空気が拡散する。こうして村の若者の晴れ舞台、力自慢の行事が行われた。力石は大正の頃まで、つまりほんの一〇〇年程前までは、各地の神社の境内や広場で使われていたという。若者たちにとって、皆の前で力石を持ち上げることは一人前の男となった証であり、同時に村の女たちへのデモンストレーションであったとのこと。農業や漁業が主体の暮らしの中で、人力こそが豊穣への近道。力比べは男たちにとって娯楽であると共に、侍の真剣勝負のように真っ向から力石に挑む神聖な行事だったのだろう。それから過ぎることほんの幾世代の今、体力よりも知力が、さらに人間の頭脳よりも人工知能がもてはやされる時代がやってきた。できることなら体力と知恵がしっかりと連動した力石の腕試しを、もう一度歓声と共に、この目でみたいものだ。  福島礼子(文筆業) haiku-sen.com/epub/index_viewer.html?content_dir=chikaraishixi-s-takashima/

51)力石を詠む(十)

郷土の文化遺産は貴いものである。 それがややもすると破壊され衰亡、散逸することが多い。吾々は文化遺産を子孫に伝える責任がある。 悔を千載に残すことのない様お互に関心を持ち文化財又は文化財的のものを大切にしなければならない。(小林信一)

50)愛知の力石


『はじめに』重い物に力が加わると「動く」、人が重い物に力を加えると「働く」、田で力仕事をするのが「男」、力が少ないと「劣る」、重い鐘を持ち上げると「勇」など力に関わる文字も多い。今では考えられないほど力が重要であった時代を超えて現代の文明社会がある。

49)愛媛の力石

 
『はじめに』※人が重い物に力を加えると働く、※田で力を発揮するのが男、※力が少ないと劣る、※重い鐘に力を加えると勇ましい、※税を労働で支払うのが主税(ちから)、※重い物に力が加わると動く、など力に関わる文字も多い。今では考えられないほど力が重要であった時代を越えて現代の社会がある。かつて労働の全ては人力で行われていた。男は、最低米一俵(十六貫・六〇キログラム)を担ぐことができなければ一人前と認められなかった。職種によっては、どれくらいの重さを担げるかによって給金が決められることもあった。そのため若者達は、力をつけるために様々な物を利用して体を鍛えていた。また娯楽の少なかった時代には、相撲や力くらべなどを楽しみ、力を誇示したものである。そのような鍛錬や力くらべに使用された一つに力石があっ
〔表帯〕波穏やかな瀬戸内海の潮風に、伊予の山ふところに包まれて たくましい男達のかけ声が響く 石を担ぐという単純な鍛錬と娯楽があった 今も残る力石である

48)力石を詠む(九)

「序文」(大田さつき・ゴスペル俳句会員)
「力石」は何も語りかけてこないけれど、この石を多くの名もなき若者たちが担いで体を鍛え、肉体労働に励み、日本の歴史をつくってきたのだなあという感慨がしみじみと湧いてきます。パソコンで何でもできるような錯覚に陥り、人間の労力というものを軽視しがちな現代でも、最後は人間の力が物をいうのです。

47)力石を詠む(八)

「序文」(やまだみのる・ゴスペル俳句代表)
俳句は存問の詩であるといわれる。「安否を問うこと。慰問すること。」と辞書には記されているが、そのようなこころもちで対象物と接することで目には見えないものを発見し、みみには聞こえない声なき声を聞こうとするのである。力石は、ことばを持たないし、何かを訴えようとして表情や形を変えることもない。けれども心を通わせて存問するとき、感動というプロセスを通してその時代に生きた人々の様々な思いを語り出すのである。敬愛する高島教授は、「力石を詠む」という機会を通して、改めて私たちにそのことを教えてくださった。心から感謝すると共に、この書に詠まれた作品が多くの読者の心に共感を与えて、先生の力石の研究の一助となることを祈念してやまない。

46)力石を詠む(七)

「序文」(福江ちえり・俳句結社「雉」同人)
かつては力比べや神事に用いられ、今も神社などに見ることができる力石。しかし残念なことに、年々、その数を減らしている。重量などの刻字のない多くの力石は、自然石として失われつつある。身近なものだけに、文化的価値を見いだし難いのかもしれない。一方で、力石を詠んだ俳句・短歌が多く生まれている。これらの作品の中で、力石は生き生きとした命を得ている。それは、力石にある若さ、強さの象徴、神聖なイメージが、心の風景として訴える力を持つからではないだろうか。それらの作品の数々が、この本に収められている。詩歌において新しい息吹を得た力石は、読者に勇気を与えてくれるに違いない。また「力石を詠む」シリーズによって、力石の文化的価値が見直され、一つでも多くの力石が保存されていくことにつながればいいと願っている。これからも版を重ね、多くの作品が世に出ることを楽しみにしている。

45)力石を詠む(六)

 
「序文」(雨宮清子・静岡市文化財資料館運営委員)
氏神様やお堂の片隅にポツンと置かれた力石。かつては若者たちの鍛錬や娯楽にもてはやされた石なのに、今その思い出を語る人もいなくなり、名前さえ忘れられてしまった。力石は、のっぺりしたただの石だ。けれどこの石には、昔の若者たちの汗や涙や喜びがたくさんしみ込んでいる。そっと手を当てると、彼らの歓声や熱気がジーンと伝わってくる。どんな力石もその内部に物語を秘めている。こちらから問いかければ必ず何かを語り出す。足元のそんな力石に目を留め、対話し、石が語る物語に心を動かされた人々が、その哀歓を詠い上げた。それを一同に収めたのが本書である。全国の名もなき力石たちの詩歌に託した想いを、多くの人に届けたい。

44)静岡の力石


『はじめに』人が重い物に力を加えると働く、※田で力を発揮するのが男、※力が少ないと劣る、※重い鐘に力を加えると勇ましい、※税を労働で支払うのが主税(ちから)、※重い物に力が加わると動く、など力に関わる文字も多い。今では考えられないほど力が重要であった時代を越えて現代の社会がある。かつて労働の全ては人力で行われていた。男は、最低米一俵(十六貫・六〇キログラム)を担ぐことができなければ一人前と認められなかった。職種によっては、どれくらいの重さを担げるかによって給金が決められることもあった。そのため若者達は、力をつけるために様々な物を利用して体を鍛えていた。また娯楽の少なかった時代には、相撲や力くらべなどを楽しみ、力を誇示したものである。そのような鍛錬や力くらべに使用された一つに力石があった。

43)力石(ちからいし)

『序 文』
「力石(ちからいし)の出版に寄せて」(中京大学名誉教授・木村吉次)
 このたび高島慎助先生の「力石(ちからいし)」が出版されることになった。これは、これまでに公にされてきた数多くの研究成果をまとめられ、それらを総括した総論的なものである。いままでのおびただしい数の個別研究をふまえた成果である。著者が本文中でも述べておられるように、本書は元上智大学名誉教授の故伊東明先生が収集された力石資料もご遺族から寄贈されたものも利用されている。それに大いに助けられながら、さらに精力的に著者自身が全国に力石を訪ねて調査された結果が今回の「力石(ちからいし)」に実を結んだのである。これまで、各地方ごとの力石の調査をまとめ、出版されてきた。その数は膨大なものであり、そのエネルギーには敬服する外ない。これは、本書の参考文献を一覧されれば容易に理解されるところである。体育史研究の分野における民俗学的研究として見るとき、著者は今日の体育史学会においてまことに貴重な存在となっている。そして、これまでの研究にも多くの研究者が共同研究者となっていたが、この「力石(ちからいし)」の刊行を契機として、さらに多くの若い研究者たちが力石研究に入ってこられることを心から願わずにおれない。そして、そこから力石学会のようなものに発展し、力石研究がさらに飛躍するならば著者も大いに喜びとするところであろう。
「序」(早稲田大学教授・寒川恒夫)
高島愼助先生が力石研究とかかわるきっかけは、上智大学の故伊東明先生との出会いにあったとうかがっている。ここで、高島先生の力石研究を理解する前提として、さいしょに伊東先生の力石研究に触れておきたい。 伊東先生は体育史(今日ではスポーツ史)研究を専門とされた方で、斯界の重鎮でいらっしゃった。当時、力石といえば、その研究は専ら民俗学に属し、多くは年占や村の成人儀礼などの視点から論じられたが、専門の研究者がいて、成果が蓄積されているという状況ではなかった。また、戦後に始まる体育史研究においてもそこで中心的に論じられたのは明治以降の学校体育やスポーツの発展をめぐる問題で、神社に残る力石にアカデミックな関心が注がれることはなかった。そうした中、伊東先生を中心とするグループが力石の情報収集と学会における研究発表を精力的に展開し、次第に力石研究の重要性が発信されるようになった。1978年9月に東京で開催された国際会議「国際体育・スポーツ史東京セミナー」はユネスコの体育・スポーツ専門委員会であるICHSPEも関わった影響力の大きい会議であったが、そこで「Measuring Strength by CHIKARAISHI 」と題する発表がおこなわれ、日本の力石研究が海外の研究者に知られることになった。高島先生の力石研究は、こうした研究史の延長線上にあって、これをさらに発展させ、かつ総括する立場にある。研究は時代の子どもである。対象にたいする関心も時代によって変化する。かつて伊東先生たちが取り組んでいた頃は、力石の発生やその伝播を含めた歴史的研究がもっぱらであったが、それは「力石の今」が十分に成熟せず(もっと上手く言えば、力石行事が衰退して実際に石がもち上げられることも、これに地元の人たちが関心を寄せることも小さくなった状況にあったために)、それ故に寺社に鎮座する力石という考古学遺物から過去を再構成するという通時的関心に拠らざるを得なかった状況にあったためであった。しかし、近年、状況は変わりつつある。1992年に制定された通称「おまつり法」(地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律)、またユネスコが展開する無形文化遺産制度、さらにマス・ツーリズムへの反省として近年推奨される“持続可能なツーリズム”としてのエスニック・ツーリズム、これらの新しい波がホコリをかぶっていた古い伝統文化に新しい価値を付与し、再生させているのである。そして、この動きはグローバルに進行している。かつて毛沢東社会主義イデオロギーのもとで封建時代の弊として永らく封印されていた諸民族の伝統行事は、2000年に発せられた文化産業政策によって観光資源に変容し、いま中国各地で伝統的祭礼観光が急速かつ大規模に進展し、そしてその中に力石も含まれているのである。こうした伝統行事が観光化する中にあって、日本でも力石状況に変化がおき、各地で再興の動きが見え始めた。そうした現場では文化人類学のフィールドワークが有力な分析の武器となり、これまで歴史学が明らかにした以外の力石の顔も、これを描く事が可能になった。文化問題としての力石研究が生まれようとしているのである。メデイアや村の人がつむぎ出す力石の「言説」研究も魅力的である。
 今、力石は新しい伝統文化研究の流の中にあって、アトラクティブな対象になろうとしている。おそるべき知的集中力と知的エネルギーによって達成された高島先生の膨大な力石研究の成果は、力石研究の新しい地平を拓く礎である。

42)新発見・力石



41)九州・沖縄の力石

 
「力石」から何を学ぶべきか!(谷口 優・四日市大学客員教授)
日本の力石の歴史的背景の中から日本人が学び習得すべき文化は何か!「事実の集積」から「収斂される学問的トレンド」へ大いなる期待をし、深く敬意を表します。


40)石に挑んだ男達


39)山陰の力石

『はじめに』「小さな橋をわたる。橋をわたったたもとに、力石が置いてある。むかしどの農村にもあった力石は、ちかごろ見かけることがすくなくなっている。力石のそばを、溝川が走っていた。川ガニが力石の根をまわってむこうに消えた。」と司馬遼太郎が「街道をゆく」に書き残した力石も調査した。

38)群馬・山梨の力石

『はじめに』海のない群馬県、山梨県の山間部に眠っている力石を訪ねた。見事な刻字を残す力石があった。立派な奉納額があった。それでもほとんどの力石が人知れずひっそりと眠っていた。

37)茨城・栃木の力石

『はじめに』茨城県土浦市で七個、栃木県都賀郡藤岡町で十二個、栃木県那須郡那珂川町で一個の力石が有形民俗文化財に指定されている。他の力石も大切に保存して残して欲しいものである。

36)石川の力石(第2版)
35)石川の力石(初版)

『はじめに』石川県で力石を訪ねると「あゝ、バンモチ石かね」と答えられる。県全域でバンモチ石という名称が通り名となっていた。

34)福井の力石(第2版)
33)福井の力石(初版)


『序文』末政千代子(福井県ブランド大使)
どの村々でも盤持は行われていたという。労働者の間から発生しその行為がやがて村々の娯楽となり「盤持石」は江戸時代から昭和まで続き昭和二十五年頃その役割を終え、現在では「盤持石」の存在や意味も忘れさられようとしている。「盤持石」の大半の姿を見て来てひと時は日本中を風靡した「盤持石」が、この後も末永く郷土の有形文化遺産として保存されることを心から念じ貧者の一灯を捧げたい。
現在他県では有形文化財として指定保護されている地域もある。地震に耐え風雪に耐え土にもなれず再びのスポットライトも浴びない石の声が聞こえて来た。「うららを何とかしてくれや」と言う叫び声が私の心に聞こえ残っている。
『はじめに』若狭地方で力石を訪ねると、恐竜の卵のような石がゴロゴロと転がっている。日本海の荒波によってなめらかに削られた石であった。白くて形がいい、しかし、さぞかし担ぎにくかったであろう。

32)富山の力石

『はじめに』富山県には、他県に比べて盤持ちの記念碑や番付などの資料も多く残り、現在でも石や俵を用いた盤持ちが継承されている。
富山県からの移住者が多かった北海道には、富山県の「盤持ち」の文化が継承されている。北海道夕張郡栗山町中里地区の中里盤持大会である。

31)新潟の力石

『はじめに』米どころ、越後の国である。俵による盤持ちが盛んに行われた事であろう。当然、力石による盤持ちが行われても不思議ではない。越後平野に佐渡島に力石が残っている。

30)山陽の力石

『はじめに』北前船の行き来した瀬戸内海沿岸には荷役に関わった多くの労働者がいた。また石工の多かった地域には見事な字が刻まれた力石が多くあった。しかし山間部の無銘の力石にも若者達の汗が染み込んでいる。文化財としての価値は、いずれも同じである。大切に残して欲しい。

29)兵庫の力石


『はじめに』兵庫県は、なんとなく縦に長い県である。日本海の潮風に触れ、淡路島では瀬戸内海の暖かい日差しを浴びながら力石を訪ねた。

28)埼玉の力石


『はじめに』埼玉県には、全国で最古の「年代刻字」のある力石があった。全国で最重量の力石があった。全国最多の力石を測定した。力石の宝庫である。

27)千葉の力石


『はじめに』千葉県は、利根川を始めとする河川における河岸や、海岸に接する港などが多くあり、そこには荷役に関わる力仕事を主体とする労働が必要とされていた。自然と力量を競う力石を使用した力比べが頻繁に行われていたことであろう。残された力石も多かった。

26)力石を読む(五)

「序文」(力石研究家・斎藤保夫)
そこに力石はあった。ただひたすらに空を見上げ、あるいは前を向いたまま、そこに力石はいた。かつては、目くるめく季節の中で、絶えず若者たちに抱えられ、担がれ、差し上げられながら、若者たちを鍛え、多くの人々に楽しみと喜びを与え、祈りと願いまでもその身に受けていた時があった。時は流れて、その役目を終えた力石は、いつしか忘れられ、周囲に抗うこともなく、過去を語ることもなく、少しずつ風化し、少しずつ地中に沈んでいく・・・。だが、そんな力石の悲哀に気付いた人がいて、思いを寄せてくれた人が沢山いたのである。その人々は、力石を差し上げたのではなく、高々と詠みあげてくれたのである。この書はその人々の思いがほとばしる、渾身の一書
!新たな詩情風景として、あなたの心に響くことを願うものである。

25)力石を詠む(四)

「序文」(越谷市郷土研究会会員・酒井 正)
『力石は、若者の心身を鍛えた 力石は、力自慢を試し競わせた 力石は真の勇者を誕生させた 力石は、神仏の依り代ともなった 力石は、道祖神として村を守った 力石は、疫病神から村人を守った』かつて、力石が若者たちの心身を鍛え、力自慢を競わせ、真の力人を生んだ時代があった。彼等の力技は、時として、神仏をも感応し賜い、人々は歓喜し、多くの苦難を乗り越える心の支えとなった。時は移り幾星霜、社寺の境内や路傍に忘れ去られ、ひっそりと踞る力石たちに愛惜を込めた称句、賛歌二八〇作。

24)力石を詠む(三)

(NPO俳句三重・蕉庵及道)
金剛の力の石にある気負ひ 金剛の力の石にある情け 金剛の力の石にある響き 金剛の力の石にある静寂 金剛の力の石にある光り 金剛の力の石に宿る露

23)力石を詠む(二)

(浦和けやき句会・薄井逸走)
俳句から力石の風景と季節がみえる 短歌から力石の歴史と祭りがみえる 川柳から力石の重さと汗がみえる 狂歌から力石の動きと笑いがみえる 今も・・句や歌の中に力石は生きている

22)力石を詠む(一)

 
(俳句結社「雲の峰」主宰・朝妻力)
「忘れられゆくものへの挽歌」力石には、これを担ぎあげた若者たちの青春の息吹が宿っている。これに体育史学的意義を見出し、津々浦々を行脚し続ける編者。この一集は、そんな忘れられゆく力石への挽歌である。

21)北海道・東北の力石


『はじめに』北海道にも数少ないが力石があった。本州からの移住者が故郷で行っていた力比べの文化が伝わっていた。東北六県の海辺から山間部にかけて力石を訪ねた。まだまだ多くの力石が人知れず眠っていそうだ。

20)さいたま市の力石


『はじめに』埼玉県は、日本で一番多くの力石情報を得ている。平成十五年八月、越谷市における「力石と力持ち(越谷出身・日本一の力持ち・三ノ宮卯之助)」と題した講演を機に酒井正氏と知己を得た。酒井氏から次々と送られてくる力石情報と添えられた力石スケッチに感動。平成十三年五月一日に浦和市、大宮市、与野市が合併した新生「さいたま市」全域の力石スケッチを依頼し了承を得た。酒井氏のスケッチブックを携えた広範囲な力石行脚が始まった。酒井氏のスケッチが続々と手元に届くうち、さらに平成十七年四月一日に岩槻市の合併が成立、酒井氏のスケッチが、さらに膨大なものとなった。何度も埼玉県に足を伸ばし、酒井氏のスケッチ調査にもお付き合いさせてもらい、今回、共著「さいたま市の力石」を出版できた。
〔裏帯〕全石スケッチという初めての試みにより、新生「さいたま市」の力石が鮮やかに蘇った!力石の一つ一つに触れて感じるのは、質素でありながらもたくましく生きた、当時の人々に対する畏敬の念である!

9)四国の力石


『はじめに』司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に「脱藩とは登山のようなものだ。とくにこの土佐の場合は」という言葉がある。そのように四国は、海の近くまで山が迫っている所が多い。海岸近くを走っては、山奥深く、力石を訪ねた。瀬戸内海を渡る三本の橋を何度か往復した。フェリーを利用して島々を渡った。ようやく情報を得た力石の全てを計測した。

18)神奈川の力石(第2版)
17)神奈川の力石(初版)


『はじめに』神奈川の力石には、江戸力持ちの様式が色濃く残る。各地に名を残す力持ちを輩出、江戸力持力士との交流、力石に刻まれた文字が、それらを物語る。「新城囃子曲持」(川崎市中原区新城・川崎市重要習俗技芸)に、その名残が継承されている。かつて労働の全ては人力で行われていた。男は、最低米一俵(十六貫・六〇キログラム)を担ぐことができなければ一人前と認められなかった。職種によっては、どれくらいの重さを担げるかによって給金が決められることもあった。そのため若者達は、力をつけるために様々な物を利用して体を鍛えていた。また娯楽の少なかった時代には、相撲や力くらべなどを楽しみ、力を誇示したものである。そのような鍛錬や力くらべに使用された一つに力石があった。

16)長野の力石(第2版)
15)長野の力石(初版)

 
『はじめに』信濃の国は山の国である。アルプスの懐に抱かれて、若者達が挑んだ「力石」が、ひっそりと眠っている。人々に担がれ、落とされ、傷ついた道祖神もあるが、それでも道祖神は、人々に触れられたことを喜ぶかのように微笑んで立っている。

14)岐阜の力石

『はじめに』石を担ぐ人の顎が触れる場所に人知れず頬紅を塗り、その人と添えられるように願ったという。美女を得るために石で競ったという。「力石」にもロマンチックな伝承が残っている。

13)愛知・静岡の力石


12)東京の力石

『内観の旅・力石行脚』谷口 優(四日市大学教授)
私の親しい友人が贈ってくれた近著に「最近パート百科と呼ばれる分冊式テーマシリーズ・ムックが矢継ぎ早に出ているが、そこにみる旅の主流は、神社・仏閣を訪ねる、といった精神的な旅である。いわば四国のお遍路さんの様な旅は、日本人のDNAに深く根ざしているのではないかと思う」と書いてある。
 私は、その根底にあるのは「自己探求」だと思っている。名刹や伝統のある神社を訪ね、仏教や神道の教えを乞えば、そこには強い「自己探求性」がある。それは「我を悟る」為の「内観の旅」といって良い。 高島先生の「力石行脚」が「内観の旅」から始まったものかどうか、私は未だ聞いていない。だが真摯に、ひたむきに、殉教者の様に日本全土の力石を探ねるエネルギーの背景には、先生の敬虔な自己探求性「内観の旅」をイメージするのである。
 神社仏閣の歴史と、自然の中に屹立あるいは佇む、時には隠されている様に静かで謙虚な力石を発見し、高島先生は、そこに歴史の重さと文化の深さ、人々の生活のまなざしを見出し、それを通じて自らを探求し「自己実現」を果たされているのだと思う。そして、それが結果として学術的成果に結びついているのだと思う。
 今、私の手元に既に五冊の本がある。「三重」「奈良・和歌山」「播磨」「京都・滋賀」「大阪」のそれぞれ下に「の力石」という言葉が付いている。「力石」とは、私が四日市大学に勤務するようになって初めて知った言葉である。その「力石」を研究している人物に巡り会った。本著「東京の力石」を出版された高島愼助教授である。体育史学の立場から、たった一人で北海道から沖縄まで全国の「力石」を訪ねている。講義とクラブの合間をぬって軽自動車に寝袋を積んで全国全ての「力石」を実測調査されている。これまでの論文や著書を読ませていただいたが、過去、男の世界では力が成人への通過儀礼であったり、経済的基盤でもあった。そこに「力石」が存在していたのである。高島先生の精力的な調査報告により、各地で「力石」の保存や民俗文化財への指定登録が活発になっていると聞く。一人の人間が多くの人々の認識を新たにし、郷土の文化遺産が、庶民の文化遺産が大切に守られていくのは有意義なことである。私の住む世田谷区にも多くの「力石」があることを教えられた。分野が異なると知らない事が多々ある。娯楽としての「力比べ」だけではなく、その背景には物を担いで運ぶという大変な作業があった。機械化され簡単に物資が運ばれる現在であるが、機械文明が発達する前には人間の力が必要不可欠だったのである。単なる道具としての「力石」ではなく、生活の中から生まれ、使用されてきた「力石」に新しく日の光を当て、先人の苦労を偲ばせる「力石」が甦りつつある。高島先生の絶え間なく地道な努力に対し、改めて深く敬意を表したい。
『貴重と便利』高崎 力(埼玉県越谷市文化財調査委員長)
私が「力石」の調査を始めたのは昭和二十六年からで、当時、自転車、バス、電車を利用した、のんびりとした調査でした。そして東京下町の「力石」の多さに驚嘆し、以後「三ノ宮卯之助」一点に絞り過ぎ、今になって後悔しています。高島先生の「力石」調査は誠に独創的で、さすがスポーツ人類学の実践者にふさわしい方法を考案、居住性を備えたマイカーにパソコン等を登載し、さながら「動く研究室」とでも言えましょう。私の調査方法の点と線に対し、高島先生の調査は帯と面を怒濤のように走っておられます。この「力石」の全国調査の敢行が完結すると先人が成し得なかった膨大なる「力石分布調査」となり後世に伝承される貴重な資料となります。今回の「力石」シリーズ第六弾は「東京の力石」です。「江戸力持元祖」と自称する芝土橋久太郎と怪力の元飯田橋萬屋金蔵の名を併刻した「力石」は大田区久が原の西部八幡神社と目黒区下目黒の大鳥神社にあり、二人は後に名古屋、大阪にて力持興行を行い大好評でした。芝居の台詞になった中村弥兵衛、酒樽を両手両足にて運んだ豊島屋熊治郎、大阪方力持の誇張した鼻柱を折った内田屋金蔵などの資料の他、民俗的伝承や解説もあり研究のみならず読み物としても楽しめる便利な「力石の百科事典」と言えます。都内の史跡巡りに携行をお勧めします。
『はじめに』東京には、江戸時代から日本の様々な文化が集中している。東京が江戸と呼ばれている頃から日本中の物資が集積され、それらを荷揚げし運搬する人々が多くいた。力のある者は稼ぎも良く、また娯楽の一つとして重い「力石」を担ぐ者は、男の世界では憧憬のまなざしで見られた。「力」は、経済を支える重要な要因であった。男達は物を担ぐコツを会得するため「力石」に挑んでいた。また「俵」や「力石」を使用し、相撲の様に「力持番付(図1・写真9・10)」を作って「力持ち」の競技会を開催していた。現在でも深川力持睦会によって「力持ち(東京都無形文化財)」が継承されている(写真4)。過去には「深川力持ち」でも「力石」が使用されていた。残念ながら現在では「力石」は使用されていない。都内に残る「力石」の多くには、見事な刻字が施され「石銘、人名、重量、地名、年代」などが残されている。また有形民俗文化財に指定、登録された「力石」も多く、他県に比べると「力石」に対する認識も高い。さらに「力石」に関わる文献や資料も多く作製されている。
 「力石」は、力を必要とする男達の生活の中から自然発生的に生まれたものであるが、東京都を取り巻く千葉県、埼玉県、神奈川県にも「力石」は多く、河川や海上を利用した舟運などによって東京都の「力石文化」が伝搬されたことも推測される。現在、著者は全国の「力石」調査を行っており、その一部を報告してきた。東京都には、多くの文化遺産が存在する。しかし静かに眠ってはいるが、一般庶民が毎日のように汗し、親しんできた「力石」も、まぎれもない郷土の文化遺産である。そこで東京都各教育委員会および多くの人々の協力を得て調査した結果、東京都で千二百個以上の「力石」が確認出来た。

11)大阪の力石(第2版)
10)大阪の力石(初版)

  
「序文大阪市立大学教授・ 宮側敏明
この度、私の大学の先輩である四日市大学の高島愼助教授が「大阪の力石」を出版された。三重、奈良、和歌山、播磨、京都、滋賀に続くものである。高島先生は、北海道から沖縄に至る全国を車で回り、現存する「力石」の一個一個を実測調査されている。さらに、その結果をできるだけ現存地域で発表され、「力石」を郷土の文化遺産として啓発し保存に勤めておられる。 今回の原稿を拝読すると大阪府全域にわたっての「力石」が網羅されているようであるが、まだまだ歴史の闇に埋もれている「力石」が多くあるとのことである。 各地で民俗文化財に指定、登録されている「力石」もあるが、高島先生の報告により、全国各地で「力石」への認識が高まり、新しく文化財として登録される「力石」が増加しているとのことである。東京都では、多くの「力石」が民俗文化財として保護されているのに対して、大阪府では、民俗文化財に指定、登録された「力石」が無いのは非常に残念である。 「灯台元暗し」私の勤務先近くにもいくつかの「力石」が残っていることを教えていただいた。改めて高島先生の緻密な調査に驚いている。本著「大阪の力石」をきっかけに、大阪府でも民俗文化財としてはもちろんスポーツ文化遺産としての「力石」を認識し、保護してもらいたいものである。今は使用されないとはいえ人々の親しんだ「力石」が改めて民俗文化遺産として一人でも多くの人々に認識されることを願っている。
『はじめに』「摂津名所図会」を開くと「天満市之側」、「中之嶋」、「高麗橋矢倉屋敷」、「長堀の石濱」、「長堀材木濱」、「永代濱干鰯市」などの図がある。蜜柑、米、綿、石、材木、干し魚などの物資を陸揚げし倉庫に搬入する力強い男達が描かれている。大阪には諸藩の蔵屋敷が建ち並び諸国の米が運ばれてきた。米だけではない、商都大阪には、各種の物資が集まっていた。河川を利用し運ばれてきた商品は、ほとんどが人力によって運搬されていた。「中之嶋」を描いたものには《大坂の北、中嶋のほとり、諸侯の蔵屋敷へ其國々より着船の米穀を改め、蔵々へ水上す。これを仲衆といふ。其中にも大力の上手ありて、三俵五俵こころのままに曲持して人の眼を驚かさすも多かりき。》という説明がある。経済を支える基盤には、個人の力があった。現在では機械文明の発達によりベルトコンベアーやフォークリフトが活躍しているが、過去には、これら全てを人力に頼っていた。先人達は、自己の肉体を酷使し物資の運搬を行っていた。そのために男達は、身体を鍛錬し、体力を培ってきたのである。それらの道具の一つとして力石があった。また娯楽の少ない時代に人々が、力自慢を競い、話に花を咲かせたのも力石であった。しかし機械化によって過酷な労働から解放されたことや娯楽の増加により力石は、その必要性を失い、役割を終えた。全国の各集落毎に存在していたであろう力石は、多くの自治体でまだまだ把握されていないのが現状である。さらに力石の意味や存在を知る人々が少なくなり、各地で力石が次々と紛失している。反面、力石の存在を把握できた地域において続々と保存処置が行われてきているのは、力石を研究する者にとって喜ばしいことである。

9)京都・滋賀の力石(第2版)
8)京都・滋賀の力石(初版)

 
『はじめに』物を運ぶために個人の力が必要だった時代、娯楽の少なかった時代、体を鍛えるとともに力自慢を競ったのが「力石」を用いた「力持ち」であった。石を担ぐ!そんな単純な事が全国で行われていた。「力石」と呼ばれる石が、全国にある。人々が住んでいた所には、必ずと言っていいほど「力石」が残っている。ささやかな民俗文化遺産が眠っている。

7)播磨の力石(第2版)
6)播磨の力石(初版)

  
「序文」元長崎女子短期大学助教授  栗山史朗
全国各地の集落では、昭和初期まで若者達が頃合いの石を担ぎ、盛んに力試しや力くらべに興じたり、重量物を扱うコツを先輩から学んだりしていた。そのような石が今では無用となって神社境内の片隅などに転がされているのを見かけることがある。また注意して調べると、担いだ人の名前などを刻んだ石に出くわすこともある。それらの石が「力石」である。力石の習俗は、経済の生産・労働の部門を担ってきた人々の娯楽として、庶民の暮らしの中にいつも存在していた。しかし、庶民のものであっただけに文書などにも残されず、これまで力石に係わる書籍で出版された物はわずかに一、二を数えるのみであった。先人達の生きた証しでもある力石の存在価値やその背景などを汲み取るにはあまりにも乏し過ぎた。このような状況の中で、力石研究の泰斗として東奔西走の高島愼助先生が、この度、「播磨の力石」を公にされることになった。先に出版された「三重の力石」に続く快挙である。本著では、伝統の「力持ち」や貴重な「力持番付」等の写真と北海道から沖縄にかけて収集された全国の力石情報を基に、力石の歴史、競技方法、概要などがわかりやすく解説されている。また高島先生を慈しみ育てた郷土播磨の全域に及ぶ調査結果が網羅されていて、同郷の読者の垂涎の的となるところであろう。さらに、全国の力石に対する動向にまで言及されている。さて、播磨の力石の多くは自然のままの石であるが、中には人手を加えた見事な石もある。三日月町にある寛保年号の力石は、寛延二年、課税に窮して蜂起した農民達ゆかりの力石の存在をも暗示するのか。無言の石に触れて尋ね合わせてみたい。
 本書は、正に力石顕彰の弾み車であろう。
『播磨の力石に寄せて』三木保雄
 高島先生と私の最初の出会いは、先生が姫路市の各自治会長宛、力石についてのアンケート調査時、当時の会長からアンケートに答えるよう私に任されたことから先生とのつきあいが始まりました。以前から郷土の力石について調査を進めていた私は、大学の先生が力石の調査をされていることを知り大いに勇気づけられたことでした。私の住む姫路市大津区天満には、二つの神社があり両社ともに力石が存在し、しかも秋の例祭には実際に石を担ぎ上げる行事が今も続いています。先生にもこの旨を伝えると是非とも観たいと足を当地に運ばれたのでした。このことが刺激となり、以後、先生との絆も深まったわけです。この度、先生が「播磨の力石」を出版されることになり、大変嬉しく我が事のように喜んでいます。私の狭い調査でも姫路には特筆すべき力石があります。例えば魚吹八幡神社には「江戸大力持三ノ宮卯之助」や近郷の強力五名の「切付」も見える。広畑区才天満宮の力石には大きな文字の切付があり壮観である。飾磨区濱ノ宮には、「一世一代」と刻し壮挙を成し遂げた大浜岩吉の心意気が今に偲ばれる。また播磨一円よりの参詣者で賑わっていた広峯神社には、平野川儀蔵の力石と芳兵衛のさし石がある。このさし石は播州では一番広く知られ、多くの人に担がれた力石で「私も担いだ」という話はよく聞く。この力石は、播州中の基準となり「認定石」として暗黙に認められてきたようである。本書では九百個を越える力石が網羅されており、まさに圧巻である。
 「播磨の力石」の出版を機に未だ埋もれた力石をも発掘し、文化財としての力石が播磨の歴史に重みを加え、播磨史研究の進展に重要な役割を果たすことを願っています。

5)奈良・和歌山の力石(第2版)
4)奈良・和歌山の力石(初版)

 

3)三重の民俗



2)三重の力石(第2版)
1)三重の力石(初版)
   
「序文」(神戸大学名誉教授・神吉賢一)
 「力石」を用いた力比べは、庶民の遊びであった。政治や経済などに見られる世の中の大きな出来事は、歴史に残され後世に伝えられる。しかし、「力石」のような遊びは記録に残ることは少ない。「力持番付」や「力石人名簿」などは稀に見る文献であろう。 このような庶民の生活と密着した遊びが、江戸、明治、大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきたのである。しかし、この「力石」も労働の機械化と西洋スポーツの移入などの影響により次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置された存在となっている。このような社会状況のなかで、高島愼助教授が『三重の力石』を上梓されたことは誠に意義のあることである。
 高島先生は体育史の分野で、「力石」研究の先駆者である故伊東明先生や岸井守一先生の研究を発展され、地域の人々から広範囲に「力石」に関する情報を収集され、多くの研究論文を発表されています。さらに、先生の研究活動で素晴らしいのは、「力石」を調査研究するだけではなく、必ずその地で民俗学や体育史学の立場から、「力石」の意味や保存の重要性を説き、後世に「力石」を民俗学の資料として、またスポーツの文化遺産として伝える努力をされていることである。本書は、三重県下の全市町村に存在する「力石」を調査研究した著者の汗の結晶である。かって若者が血をたぎらせて挑戦したであろう「力石」が再びスポットライトをあびることを期待したい。それが著者の最大の望みであろう。一読されることをお薦めする。高島先生の御努力に敬意を表し、御研究の更なる発展を祈念致します。
「三重の力石」に寄せて(学校法人大川学園学長・大川吉崇)
 「力石」という聞きなれない言葉を高島先生から伺いましたのは、一九九一年頃でした。お話を伺っていますと、それは庶民の願いに「競い」が入り交じった、時には切実な祀り事のようで、私の頭の中で雨乞いの勧進相撲が重なっていったことを思い出します。一方では、私が七年間住んでいた紀伊半島の山中、高野山の奥の院の一角にある、片手で持ち上げる願掛けの石をも連想しました。そして、先生が発表された報告書を度々いただき、力比べは、吉凶占いを兼ねているところもあること、ごく最近まで継承されてきたことなどを知り、次第に「力石」に対する思いが深まってまいりました。今まで日の当たらなかった「力石」に、先生の専門的な視点から、隠れていた庶民の習俗・習慣が、ここに日の目をみましたのは、実に喜ばしいことであります。しかも、久々の三重県発の特殊事例研究ですから、民俗学をかじる者にとりましても嬉しい限りです。「三重の力石」は、デスクワークではなく、地道な努力のもとに、県内各地を調べられ、写真を撮り、古老からお話を伺うという、民俗学の原点であるフィールドから実に克明にまとめられた貴重な資料でもあります。今後発表される他県の事例とも併せ、膨大な資料の分析から、更なる新しい一面が出てくるのではないかと、楽しみにしております。何事も最初に取り組むと言うことは、大変なことで、調査の時点でも発表の時点でも理解が得にくいところであります。この報告書に掲載されただけでも、二五〇個以上の事例を集計されてみえますから、まさに執念のような忍耐のいる仕事といえます。
 しかし、時代の流れの中での田畑環境の改良、農耕方法の変化、戦後の第二、第三次産業の急速な伸びと、農村からの人々の離脱、そしてなによりも価値観の変化から、そう遠い昔の話ではないはずですのに、今日まで埋もれたものになってしまった「力石」であります。私に限らず、この著書を読まれた方々が、「力石」以外にも自分の身の回りに、忘れてることがらの中に、価値ある継承文化があるのでは・・・と、宝物探しを始めるのではないかと想像しています。先生は、故伊東明教授の研究を受け継がれ、三重県に限らず情報を全国に巡らし、何か判ると、何処にでも飛んでいって集中的に調査されてみえます。これからの調査をもとに研究の集大成をされ、『日本の力石調査報告書』として出されるのではないかと、期待するところであります。「力石」という重たい石を担ぐときの思いと掛け声は、伊勢弁で申しますと「重たそうやなあ、よいしょ、う、うん」であり、仏教的表現をしますと、「阿吽」の中の「吽字義」の世界であると思います。私がそこに感じますのは、農耕民としての日本人の、精神的生活の原型です。「力石」は、豊作の願いと、村一番の力持ちの競いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった老若男女を問わない人々の笑いを意味していますから、「生きる喜びの証」であり、「生命の本質」であります。農耕という激しい労働と日々の我慢の吽の生活を、逆に「吽」と歯をくいしばって担ぎ上げる「力石」で競う行事からは、人間の営みを支える暖かなぬくもりが伝わってきます。機械文明の中で、人間が本来持っている力を忘れかけている私たちに、「力石」は、新しい視点を与えてくれるのではないかと思われます。
『はじめに』先人の生活の中で生まれ、人々のコミニケーションの場に存在していた力石、多くの人々が汗し、親しんできた力石は、労働の機械化や娯楽の増加により必要性を失い、その役割を終えた。三重県津市および四日市市の力石を調査したのが、私が力石に触れる最初であった。それらを整理しつつ、当時日本の力石研究の第一人者であった故伊東明先生(元上智大学名誉教授)に知己を得た。しかし日本体育学会で二度の教示と数回の手紙のやりとりで指導を受けたまま平成五年十月に先生が逝去されたのは、私の力石研究にとって大きな痛手であった。その後、遺族から膨大な資料を寄贈された。それらの資料を紐解くと青森から沖縄までの先生の足跡がギッシリと詰まっていた。この先生の業績を埋没させてしまうにはあまりにも惜しいと思われた。そこで、おこがましくも先生の遺志を継ぐと同時に、少なくとも今のうちに各地の力石の存在だけでも確認しておこうと体育史学の一分野である力石の世界に足を踏み入れた。その後、岸井守一先生(神戸商船大学名誉教授)、神吉賢一先生(神戸大学名誉教授)に教示を受けつつ、新たに各地の力石情報を収集してきた。過去には全国の各集落に存在していたであろう力石であるが、各自治体で把握されていないのには驚くばかりであった。さらに力石の意味や存在を知る人々が少なくなり、各地で力石が続々と紛失しているのが現状である。その反面、力石の存在が確認できた地域において次々と保存処置が行われてきたのは非常に喜ばしいことである。