絵を見るのは昔から何となく好きで、今までに数えきれないほどの展覧会に行ったが、特に鑑賞眼があるわけでもなく、正直なところ評判に反して良さがわからないものも数多くあった。まあ、“豚に真珠”と言うことなのだろう。
しかしだからといってそう卑屈になることもないのだよと、大いに慰められる言葉を昨年、須賀敦子のエッセイ「霧のむこうに住みたい」の中に見つけた。
『美術館や展覧会に行くと、あ、これはほしい、うちに持ってかえりたい、と思う作品をさがして遊ぶことがある。見る焦点が定まっておもしろい。』
眼からウロコの鑑賞法だった。そう、もっと気楽に見ればいい、自分だけのお気に入りを探すつもりになればいい。そう考えた時から、絵を見るのが俄然面白くなった。そして人の評判など気にせず気分のままに出かけられるようになった。
そして同時に、本を読む楽しさも再発見することになった。そういえば昔から本の中の言葉に随分影響を受けてきたことを思い出した。読書は言葉の宝探しなのだ。ちなみに最近沁みた言葉・・・・・『読むことと書き述べることの比率が、時間的に八対二ぐらいであるのが一番精神に健康である。』 (高橋和巳)
だからといって、このサイトを数か月も更新せず放置した言い訳が、八分の読書に忙しかったため、というのは通用しないことぐらいわかっているつもりだ。
コーヒー・ブレイク(33)絵を見るということ
2016.12.15
画像は私が今注目の画家、中山智介氏の京都妙蓮寺での個展の様子。どの作品もなんだか妙にカッコいい。鮮やかな抽象画がお寺の壁や畳に不思議と似合う。大屏風は無理としても、小品なら家にも飾れそう。わが家のギャラリーの白壁に掛かった様子を想像して一人悦に入っていた。