そんな時、ふとある西洋骨董の店のガラスケースの中を覗いた時、いきなり目に飛び込んできた風景があった。湖畔に小さな小屋が一軒、その背後には枝を大らかに広げた大木が一本、辺り一面夕焼け色に染まり、湖水のブルーがやけに美しくもの悲しかった。そのディナー皿の絵は特に上手いものではなかったが、なぜか不思議なほど心に沁みる風景で、私の目はその皿に釘付けとなった。添えられたカードには“old noritake”とあった。“オールド、ノ、リ、タ、ケ?”ガラスケースの中を凝視している私にすかさず店員が寄ってきて、「明治から戦前にかけて海外に輸出されていた古いノリタケ製品ですよ」と教えてくれたが、それだけ言うと彼はすぐにその場から離れた。買わない客とわかるのだろう。事実、付いていた値段は問題外だった。

2012.2.4

☆すべてはここから始まった

 そもそもなんでこんな事態になってしまったのだ。どう考えても始まりはあの20年前の“大"骨董市だろう。田舎町のデパートのこと、催事場とはいっても大した広さはない。その中に20店ほどの骨董屋が集まっているに過ぎない。当然客もまばらで、暇を持て余しながら留守番をしている店員の姿も心なしか寂しげだった。私は専ら古伊万里やアンティークアクセサリーの店を覘きながら、品も値段も魅力的な物のないことに、予想通りとはいえ軽い失望感を抱いていた。

 いつの間にか何百もの品が集まってしまい、そのすべてをいつも身近で眺めていることなど到底無理な話で、実際多くの品がダンボール箱に詰められて空き部屋に幾重にも積み重ねられたままになっていた。展示スペースを少しでも確保すべく家のリフォームをと考えているうち、これまたいつの間にか、全く新しい土地に家を建てギャラリースペースをつくろうという話になり、気の遠くなるような数のダンボール箱とともに引っ越しを終えてからは、好きなものだけに囲まれて気ままな毎日を送っている。

 今でもわからない。あの時あの店には、その皿よりもずっと洗練されたヨーロッパの陶磁器がいくつも並んでいたはずだ。それなのになぜあの風景に惹かれたのか。その後何年か、様々な古物を放浪した挙句、結局オールドノリタケに辿り着き夢中で集めている間も、時々方向を見失いそうになると、原点に戻れと自分に言い聞かせ、手に入れておいた“Tree in the Meadow”と呼ばれるその図柄の皿を眺めることにしてきた。収集するということは物欲以外の何物でもなく、ついつい人も欲しがるもの、珍しいもの、出来のいいものが欲しくなる。好きで集め始めたのに、いつしか自分の嗜好や感性を封じようとしている貪欲な自分に出会ってしまう。自然と心が解放されるものだけを相手にしなさいと、見るたびにその皿は教えてくれているのだ。

 オールドノリタケに関して言えば、飾るスペースは確かにできたが、新たに購入する余裕など全くなくなってしまった。トホホな半面、これを機にこれまでのコレクションを少し落ち着いて振り返ってみようという気になった。自分だけで秘かにやっていればいいのだが、やはり夢中になってしまう楽しさを多少なりとも人に伝えたいという気も起こってきて、その結果がこのホームページである。