三重県遺族会の歩み

三重県遺族会の歩み - 昭和20年代
できごと
昭和20年 8月15日  8月15日の正午、終戦の詔書の玉音放送がラジオの電波で流され、ついに昭和16年12月8日のハワイ島真珠湾攻撃により宣戦布告した大東亜戦争は終結した。三重県内の戦死戦没者遺族は、明治維新の国家創成に働いた戊辰戦争の戦没者をはじめ、西南の役、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変等国のために命を捧げた国家御霊の遺族たちである。
11月24日  日本を占領した連合軍最高司令官総司令部は「神道令」を発布し、国家と神道との分離を命令、靖国神社は国との関係を断たれた。また、全国に存在している国の英霊を祭祀するための護国神社も公的機関とは無縁とされ、昭和21年2月2日には「宗教法人 三重神社」となった。
昭和21年 2月1日  「恩給法ノ特例ニ関スル勅令」が公布され、戦没者遺族に対する国の処遇はすべて打ち切られることなった。
昭和22年 4月25日  県下各郡市の遺族関係者が集まって、「三重県遺族互助連盟」が結成され、三重県より補助金17万2千円を受け、組織づくりが促進された。初代会長には青山七郎氏(一身田高田本山慈茲光院長)が就任された。
昭和22年 2月1日  進駐軍の司令により、事務局は県庁内に置くことができなくなり、久居町の母子寮に移った。
4月10日  青山会長に代わって、新会長に水谷喜郎氏が選任される。
昭和24年 2月1日  「日本遺族通信」第1号の発刊。
5月14日  衆議院本会議にて、全会一致で政府に対し速やかに戦没者遺族援護方策を立て、物心両面にわたる救済の方途を講じることを求め可決した。続く16日の参議院本会議でも全員一致で可決。
昭和25年 3月23日  衆議院に「戦死戦災遺家族議員連盟」が結成された。
4月20日  池田大蔵大臣は、秋の補正予算を組む中で、遺家族等に対する諸経費を計上したいと述べ、吉田首相も、「戦没者遺族の気持ちも十分に考えるべきだ」と語り、厚生省は、7月に250万円の予算で戦没者遺族の実態調査を実施した。
昭和26年 6月23日  名称を「財団法人 三重県遺族会」と改称し、各郡市も同様にこれまでの互助連盟を遺族会と改め、県下12市14郡の会員58,997名として発足した。
9月4日  講和条約締結、日本は国際社会に復帰した。
昭和27年 4月30日  「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布、施行される。
10月16日  天皇皇后両陛下、7年ぶりに靖国神社にご参拝される。
昭和28年 3月-日  戦没者遺児靖国神社参拝は当年から中学3年生を対象として行われることとなった。
 政府派遣団による海外戦没者遺骨収集事業が始まる。
9月29日  「恩給法の一部を改正する法律」が公布施行され、戦没者の妻、父母等に対して、公務扶助料が年額2万6,765円、扶助加給金4,800円が支給された。
10月8日  郡市会長会議において、三重神社復興の機運をたかめるための資金(一戸平均100円)の拠出を決定。目標は500万円とされた。
11月2日  三重神社が「三重県護国神社」と改称された。
昭和29年 2月28日  財団法人 日本遺族会初代会長に高梁龍太郎氏を推戴(長島遺族厚生連盟理事長が勇退)。
9月-日  三重県護国神社宮司に林榮次氏就任。

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