榊原温泉はお伊勢さんの湯ごり場 湯垢離 湯ゴリ 湯ごり ゆごり

榊原温泉はお伊勢さんの湯ごり場

=榊原ものしり講座から=

*参宮の前に湯ごり*

湯ごりのできる主なお宿


 榊原はずいぶん昔は「ななくり」だったようですが、その後は一志郡榊原村でこれも長く続きました。
 榊原といえば、すぐ温泉を浮かべていただけるようで嬉しいことです。三重県の位置もわからない遠くの地で「榊原温泉は知ってるよ」と言われたこともあります。
 でも現在の都・東京の人たちの何人が知っているのでしょう。ふっと、そんなことを思うのも、昔の都っていうのも変ですが、都が奈良にあった昔のことでしょう。当然そのころは榊原の地名も「ななくり」だったはずです。
 日本三名泉。これは枕草子に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記されているところからで、宣伝のキャッチフレーズです。でも都で歌われてきた和歌には、ずいぶん「ななくりの湯」を題材にした作品が残されています。なんでそんなに知られていたのでしょう。

 伊勢神宮、正式には「神宮」ですが、二千年前に伊勢の地に鎮座されて以来、伊勢の神宮とか「お伊勢さん」の名で親しまれ、全国からの参拝者は絶えないところです。
 当時の山に囲まれた都(奈良県)では求める「ご来光」が望めず、奈良の都からは比較的に近い伊勢の地を選び、海からのご来光が望める宇治に天照大神をお祀りし、日出ずる国を完成させました。
 都から伊勢へ向かうには伊賀を通り山越えで伊勢に入ります。伊賀から伊勢へは数本の順路がありますが、笠取山を越え榊原に出るのもその一つです。笠取山はかつて倭建命(ヤマトタケルノミコト)が戦場に向かうときには、おばの倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に会うため伊勢の斎宮に向かうのが習わしになっており、笠取越えで榊原をお通りになっていたようです。
 カリキド(仮木戸=榊原にある地名)に残る言い伝えに「ミコトが山を越えるときに強い風にあおられて笠を取られたと言って、ここで休んでいかれた。それからあの山を笠取と呼ぶようになった」その場所には「やまみち・いがごえ」の文字が刻まれた石柱が朽ちかけていますが、はっきりと読みとれます。またカリキドは斎王の群行もあったと見られています。このカリキドから一里半下ったところが榊原温泉です。

 神宮へのお参りは身を清めます。伊勢に入ったところで温泉で身を清める。これを「湯ごり」といい、当時の正式な参拝でした。榊原温泉の名は当時の地名を取って「ななくりの湯」と呼んでいましたが、地元では「宮の湯」と呼んでいます。この宮の湯で湯ごりをして宇治(現在の伊勢市)に向かったのでしょう。
 湯ごりとして使われた宮の湯・榊原温泉は射山(後に貝石山)をご神体とした射山神社に護られています。射山は「湯山」が転じた名と言われています。射山神社は延喜式神名帳(927年)に列せられる式内社です。祀神は大己貴命(オオアナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)で、温泉の神として知られています。これほどまでに大層な神社を祀る意味が「湯ごり」からよくわかります。
 榊原温泉と神宮との関係は他にもあります。ななくり上村と呼ばれていたこの地を、榊原と呼ぶようになったのも、こんな地名伝説があるのです。
 継体天皇の皇女、荳角媛命(ササギノヒメミコ)が斎王となり斎宮にお入りになられたとき、物部伊勢小田連がこの地に自生している榊枝を採り射山神社境内から湧く泉「長命水」に一晩浸し、神宮の祭祀に供したと言い伝えがあります。毎年これが続けられ地名も榊原になったと言うものです。
 その後、平安の頃には枕草子に「湯は、ななくりの湯」と讃えられたり、鎌倉、室町時代には「ななくりの湯」を題材にした和歌が数多く詠われています。いずれも都から神宮参拝に向かう途中の「湯ごり」で、よく知られるようになったものと思われます。

 その宮の湯に大きな変化があったのは天正16年(1588年)のことです。世の湯治場がブームになりだしたころです。湯の神を祀る射山神社を一角に入れた湯治場が出来ました。神社境内から湧く宮の湯を使った湯治場は当時の図面を見ると64から成る客室が並ぶ大規模なもので、射山神社も「温泉大明神」という名で明治の中頃まで続きました。
 古くはお参りするための「清め」から始まった温泉も、病気の治療に、また癒しにと目的は変わってきます。変わらないのは日本人の温泉好きです。
 お伊勢さんにお参りの行き帰りには宮の湯、榊原温泉でぜひお清めになってください。