榊原のものしりになろう

=榊原ものしり講座から=

*姫路城で榊原さんを探そう*

 徳川四天王で知られる康政は、戦で功を上げ上州・館林城(10万石)に入封します。その後榊原氏は播州・姫路城(15万石)−越後・高田城(15万石)と続き、明治の廃藩を迎えるわけですが、姫路では6代にわたり榊原氏が城主を勤めていた記録があります。
 姫路は山陽道と山陰道を結ぶ基点で、出雲・因幡・但馬街道が分岐する交通の要所でした。そこに城を築くことは西を固めるという重要な役割がありました。
 さて姫路城については資料もたくさん出ておりここでは省略させていただきますが、私たちが気になるのは榊原氏のことです。観光で姫路城見学をすると、広い城内を決められた時間で見学する。「私はもうここで待つわ」と座り込む人も少なくないようです。そこで榊原ものしり講座と市民大学合同で「姫路城で榊原を探そう」とバスで出かけることにしました。
 平成15年6月12日。入梅まもなくの小雨の中を39人で姫路城に向かいました。大阪を過ぎたころから薄日が差す天候に変わり、見学宿題「姫路城で榊原源氏車紋をいくつ見つけられるか」に全員取り組みました。


この源氏車(右)が見つかるか、いざ出陣!


あった!瓦に彫り込まれた家紋の中に源氏車が。

あったあった。天守閣の資料展示の他、屋根にたくさん見つけることが出来ました。
帰りのバスで報告してもらうと、6〜7が多かったのですが196あったという人までありました。
どうも1カ所で190個ぐらいかたまっていたようで、他に証言はなかった。

では榊原氏が姫路城主を勤めたその方々は...

 榊原忠次 ただつぐ 慶安2年(1649年) 
 榊原政房 まさふさ 寛文5年(1665年) 
 榊原政邦 まさくに 宝永1年(1704年) 
 榊原政祐 まさすけ 享保11年(1726年)
 榊原政岑 まさみね 享保17年(1732年)
 榊原政永 まさなが 寛保1年(1741年) 

中でもなかなか愉快な城主もいたようで、隠居という形で高田に入封した政岑さんのお話です。

榊原政岑  享保17年この人は19歳で本家を継ぎ姫路城主となった。正室が早死にしたこともあり、尾張藩主・徳川宗春と江戸吉原を遊び歩いた。元禄バブルの崩壊で時の将軍吉宗は倹約令を出したが政岑はまったく聞く耳を持たず、吉原の三浦屋に入り浸った。この店には7代目高尾太夫がいていい仲となる。とうとう3千両で身請けをしてしまい姫路入り。しかし幕府はこれを見逃すことはなく、政岑を強引に越後(新潟県)高田城に隠居をさせられてしまった。後を継いだ政永は側室が産んだ7歳の熊千代だった。隠居が堪えたのか政岑は2年後に病死。高尾は尼になったという。