徳川家と榊原
徳川家との関わりはどうしても榊原康政になってしまいますが、康政以外に榊原の名が浮上しないから当然です。でも、もっと身近で代々関わってきた榊原は、康政の兄の清政でした。
長男は戦には出ない。本家の家系を継いできたのは長男の清政です。弟の康政が館林城主になる一方、清政は久能城守衛を命ぜられましたが同年に亡くなりました。
後を継いだのは清政の子・照久でした。そして家康公を久能山東照宮に葬ったのは照久でした。それを確かめるには、東照宮の背後にある家康公のお墓(下写真)に「葵」と「榊原源氏車」の紋が大きく刻まれています。
久能山の麓には照久の墓が向かい合うように建てられています。榊原家は代々家康公をお守りするという照久の遺言でもあり、十五代に及ぶ榊原家代々の墓がまつられています。その場所は照久の俗名をとった「照久寺」の境内でしたが、現在は宝台院別院となっています。
=写真をクリックすると講座で見学した久能山が表示されます=
宝台院とその別院 〜「宝台院別院の志おり」から〜
開 創
宝台院は、永正4年観誉祐崇上人の開基、84年を経て徳川家康公の内室、お愛の方西郷局が、天正17年5月19日、駿府城に38歳の生涯を終え宝台院に葬られました。宝台院殿一品大夫人の諡号が送られ、以後「宝台院」と呼ばれています。
宝台院別院の興立
永禄11年武田信玄は駿府国に侵攻し、久能寺を清水に移転し跡地に久能山城を作りました。天正10年徳川家康久能山城を攻めて、これを落とし、この年武田氏滅亡し、家康駿河国を領するようになる。
榊原清政は家康に仕え戦功あり、家康の長男信康の守役として岡崎城にありしも、築山殿と共に信康生害さる故に上州館林に隠居す。清政は慶長11年に再び呼び召されて、久能山城の城将となったが翌12年に病没し宝台院の葬うる。
榊原照久は家康に仕え、清政の死後久能山城の城将となり警国にあたる。
元和2年4月17日家康多彩なる生涯を閉じられる。古寿75歳、法号・安國院殿前大相國一品祟誉道和大居士と云う。
家康の遺体は、ただちに駿府城の奥城といわれた久能山城に移され葬られた。
東照大権現と神格化してまつられたのは、黒衣の宰相金地院祟伝、天海等の政僧の政策によるものである。
二代将軍秀忠は社殿を作り、初代神主に榊原照久を任じた。照久は家康生前の思顧に報いるべく警固に専念し、死しても思顧に報いるべく「自分が死んだら墓を久能山に向けて建てるように」と遺言して、
墓は久能山に向かって建てられている。浄念寺と云われた寺は、榊原二代目照清により改築され、それより照久寺といわれるようになった。
榊原家は代々久能山総門番として久能山を守りつづけた。照久寺は少数の檀家のため廃寺同様の寺院となり、荒廃の極に達した。
照久寺は昭和60年に宝台院との合併が成立し、境内地を拡張して宝台院別院となりました。