パソコン通信というコミュニケーション          俵 万智
          


 あるとき電車に乗っていたら、若い男の子が「おれ、そんときばかりは腹立って、面と向かって電話しちゃったよ。」と言っていた。
 「ん。」 と思って耳を澄ますわたし。面と向かえないから、電話をするのではないか。この子は「面と向かう」を間違って使っているのだろうか。
 が、よくよく聞いてみると、そうではなかった。話は、こうである。
 その男の子は、日常的にパソコン通信をしているようで、近ごろ通信相手とかなりひどいトラブルがあった。ちょっとしたことなら、電子メールで抗議するぐらいで済ませるのだが、あまりに頭にきたので、そのときばかりは電話をかけて文句を言った――と。
 つまり、電話をかけて肉声で直接話すというのは、彼にとっては立派な「面と向かう」行為なのである。
 わたしたちの日常において、電話というのはかなり「濃い」コミュニケーションの部類になってきているようだ。かつて電話が登場したときには、「そんな、直接顔も見ずに、 機械を通して話をするなんて、非人間的だ。」 という意見があったそうだ。
 今や、電話が非人間的なものだなんて、だれも思わないだろう。急速に普及したファクシミリや留守番電話に比べると、肉声がリアルタイムで聞こえる電話というのは、かなり生々しいとさえ感じられる。
 さて、パソコン通信であるが、こちらも電話の登場のときと同様、 「画面を通してだけのやり取りなんて、非人間的だ。」 という意見がやはりある。 新しいものが出てくるときというのは、必ずこういったことがいわれるもの。わたし自身は、ここ数年、パソコン通信に親しんでみて、決して非人間的だとは思わない。いや、むしろ実に人間臭いものであると感じている。 「面と向かう」 ことがないぶん、「面」の中身にダイレクトに会えるといったら褒めすぎだろうか。
 普通、 わたしたちが人と出会うときというのは、 まず 「外見」 からである。会ったなりわかることというのは、相手の顔かたちや背丈、声、ファッションなどなど。そして次に、どういう職場(あるいは学校など)にいて、どういうことをしていて、というようなこと。さらに話せば、どういうことに興味があるとか、どんな考えをもっているとか、ということがだんだんとわかってくる。 「中身」 のほうは、付き合ううちに徐々に見えてくる。
 いっぽう、パソコン通信での出会いというのは、全く逆の道のりを歩む。まずは、どういうことに興味があり、どういう考え方の人なのかという「中身」から知り合う。ハンドルネームという匿名で参加することが多いので、最初のうちは、年齢はもちろん、性別さえわからないこともある。そこで意気投合して話していくうちに、初めて職業とか年齢とかいったことが明かされてくる。
 そしていよいよ、会いましょうという段階になって、初めて相手の顔かたちや声を知ることになるのだ。つまり「外見」はいちばん最後の段階なのである。
 「中身」 から始まるパソコン通信は、うまく使えば、 「外見」 に惑わされない人間どうしの深いコミュニケーションが可能だ。もちろん、画面の言葉を通してなので、弱い部分はある。特に、身振り手振りや表情、言葉の間や声色といったものが伝わらないことは、かなり大きなハンデだといえるだろう。
 例えば「だめ。」とだけ文字が送られてきた場合、それがどんなニュアンスなのか、なかなかつかめないこともある。ちゃかして「だめだよーん。」 といっているのか、 本気で怒って「だめだめ絶対だめ。」といっているのか、それとも半分迷いながら、こちらの反応をうかがって「だ、め……。」といっているのか。そういったことは、やはり面と向かっているほうが、ずっとわかる。
 そこでさまざまな工夫がなされているのが「顔マーク」だ。「 ( ^ ^)(ニコッ)」「 ( ^ ^!)(タラーリ)」「 ( ^o ^)(ヤッター)」「 (-_-)(スミマセン)」などをはじめ、かなり凝ったものまである。こういうものを付けると、ずいぶんニュアンスが伝わる。身振りや表情を補うものとして、なかなか有効だ。
 また、パソコン通信上で交わされている言葉を観察すると、書き言葉と話し言葉とが、かぎりなく近づいてきていると思うことがある。特に、リアルタイムのチャットといわれるおしゃべりなどがそうだ。
 「こんにちはー。」「あ、○○さんが来た!」「お久しぶりです。」「もう、そろそろ寝よっと。」 「そうそう、 このまえ話題になっていた○○のことなんだけど。」 といった具合。言文一致の新しい局面といったら大げさだろうか。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、柔らかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく、ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかも半ば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かつてあっただろうか。 パソコンという道具を手に入れることによって、 「ものを書く」 という時間が、人々の間で急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたともいえるだろう。
 もちろん、そのためにさまざまな問題も起こっている。ルールやマナーを無視した、人を傷つけたりする、無責任な書き込み。だれもが発言、発信できるというすばらしさの陰には、だれもが発言、発信できるという恐ろしさがある。新聞の投書の場合には、採用か否かというふるいがかけられるが、パソコン通信の場合には、それがない。明らかにひどいものを事前にチェックする機能はあるものの、あとは個人の良識に任されている。こういう便利ですばらしい道具を手に入れたことをきっかけに、普通の人が普通に使う書き言葉としての日本語の、足腰が鍛えられなくては、と思う。
                        (中学校『国語3』、光村図書出版)