盆土産               三浦哲郎
 
 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川につけたゴム長のふくらはぎを伝って、ひざの裏をくすぐってくる。つぶやくにしても声にはならぬように気をつけないと、人声には敏感な河鹿を驚かせることになる。
 えびフライ。発音がむつかしい。舌がうまく回らない。都会の人には造作もないことかもしれないが、こちらにはとんとなじみのない言葉だから、うっかりすると舌をかみそうになる。フライのほうはともかくとして、えびが、存外むつかしい。
 えびフライ。さっき家を出てくるときも、つい、唐突にそうつぶやいて、姉に、
「まぁた、えんびだ。なして、間にんを入れる? えんびじゃねくて、えびフライ。」
と訂正された。自分では、えびと言っているつもりなのだが、人にはえんびと聞こえるらしい。それが何度繰り返しても直らない。
 けれども、そういう姉にしても、これから釣ろうとしている川魚のことを、いつもジャッコと言っている。分校の先生から、本当は雑魚というのだと聞いてきて、
「ジャッコじゃねくて、ザッコ。」
と教えてやっても、姉はジャッコと言うのをやめない。もう中学生だから、分校の子供に物を教わるのはおもしろくないとみえて、うるさそうに、
「そったらごと、とうの昔から覚えでら。」
 そう言っていながら、今朝もまき餌にする荏胡麻を牛乳の空き瓶に詰めているところへ起きてきて、
「ジャッコ釣りな? ……んだ、父っちゃのだしをこさえておかねばなあ。」
と姉は言った。
 父っちゃのだしというのは、父親の好きな生そばのだしのことで、父親はいつも、干した雑魚をだしにした生そばを食わないことには自分の村へ帰ってきたような気がしない、と言っている。
 帰るなら、もっと早くに知らせてくれればこんなに慌てずに済むものを、ゆうべ、いきなり速達で、盆には帰ると言ってくるのだから、面くらってしまう。明日はもう盆の入りで、殺生はいけないから、釣るものは今日のうちに釣っておかなければいけない。釣った魚は、祖母にはらわたを抜いてもらって、囲炉裏の火で串焼きにしてから、陰干しにする。今朝釣って、どうにか送り盆の晩には間に合うくらいだから、ゆうべは雨でも降って川が濁ったりしたらと、気が気ではなかった。
 えびフライ。どうもそいつが気にかかる。
 ゆうべ、といっても、まだ日が暮れたばかりのころだったが、町の郵便局から赤いスクーターがやってきたときは、家じゅうでひやりとさせられた。東京から速達だというから、てっきり父親の工事現場で事故でもあったのではないかと思ったのだ。普段、速達などには縁のない暮らしをしているから、急な知らせにはわけもなく不吉なものを感じてしまう。
 ところが、封筒の中には、伝票のような紙切れが一枚入っていて、その裏に、濃淡の著しいボールペンの文字でこう書いてあった。
『盆には帰る。十一日の夜行に乗るすけ。土産は、えびフライ。油とソースを買っておけ。』
 祖母と、姉と、三人で、しばらく顔を見合わせていた。父親は、正月休みで帰ってきたとき、今年の盆には帰れぬだろうと話していたから、みんなはすっかりその気でいたのだ。
 もちろん、父親が帰ってくれるのはうれしかったが、正直いって土産が少し心もとなかった。えびフライというのは、まだ見たことも食ったこともない。姉に、どんなものかと尋ねてみると、
「どったらもんって……えびのフライだえな。えんびじゃねくて、えびフライ。」
 姉は、にこりともせずにそう言って、あとは黙って自分の鼻の頭でも眺めるような目つきをしていた。
 えびなら、沼に小えびがたくさんいるし、フライというのも、給食に時たま鯖のフライが出るからわかる。けれども、両方いっしょにして、えびフライといわれると、急になんだかわからなくなる。あんな小えびを、どうやってフライにするのだろう。天ぷらのかき揚げのように、何匹もいっしょに揚げるのだろうか。それとも、小さく切り刻むかすりつぶすかしたのを、手ごろな大きさにまとめてコロッケのようにするのだろうか。そう言って祖母に尋ねてみると、祖母は、そうだともそうではないとも言わずに、ただ、
「……うめもんせ。」
とだけ言った。
 それは、父親がわざわざ東京から盆土産に持って帰るくらいだから、とびきりうまいものにはちがいない。だからこそ、気になって、つい、
「えびフライ……。」
と、つぶやいてみないではいられないのだ。
 牛乳瓶の荏胡麻を一口、ラッパ飲みの要領でほおばって、それをゆっくりとかみ砕く。これはすこぶるまずいものだが、もうすぐうまいものが食えるのだから、今朝はあまり気にならない。父親の土産のうまさをよく味わうためにも、かえって口の中をなるべくまずくしておくほうがいいのだ。
 かみ砕いた荏胡麻を唾液といっしょに、前の川面へ吹き散らす。すると、それを争って食う雑魚の口で、川面はそこだけ夕立に打たれたようにあばたになる。そこへ短い竿をふわりと振って、小さな針を落としてやる。針には、湾曲したところに荏胡麻に似せた白い粒が付けてあるから、雑魚が間違えて食いついてくる。釣るというよりも、軽く引っ掛けて上げるだけだから、竿を静かに後ろの岸へ回して手元を振ると、雑魚は簡単に砂の上に落ちる。
 盆前で、あまり暇な釣り人がいなかったせいか、よく肥えた雑魚ばかりで、それがぴちぴちと砂の斜面を跳ねながら水辺に並べた小石の柵を越えそうになるから、思わず、
「ばためぐなじゃ、こりゃあ。」
とどなりつけると、とたんに、足元の河鹿がぴたりと鳴きやんだ。

 父親は、村にいるころから、うさぎの毛皮の防寒帽でも麦わら帽でもあみだかぶりにする癖があったが、今度も真新しいハンチングのひさしを上げて、はげ上がった額をまる出しにして帰ってきた。見上げると、その広い額の横じわから上のほうは、そこだけ病んででもいるかのように生白かった。どうやら、工事現場のヘルメットばかりは自分の流儀で気ままにかぶるというわけにもいかないらしい。淡い空色のハンチングは、まだ頭になじんでいなくて、谷風にちょっとひさしをあおられただけで慌てて上から押さえつけなければならなかった。
 土間の上がり框で、土産の紙袋の口を開けてみて、まず、盛んに湯気を噴き上げる氷にびっくりさせられた。ぶっかき氷にしては不透明で白すぎる、なにやら砂糖菓子のような塊が大小合わせて十個ほどもビニール袋に入っているので、これも土産の一つかと思って袋の口をほどいてみると、とたんに中から、もうもうと湯気のようなものが噴き出てきたのだ。びっくりして袋を取り落としたはずみに、中の塊が一つ飛び出した。
「あ、もったいない。」
と姉が言うので、急いで拾おうとすると、ちょうど囲炉裏の灰の中から掘り出したばかりの焼き栗をせっかちにつまんだときのように、指先がひりっとして、二度びっくりさせられた。そのうえそいつのほうから指先に吸い付いてくるので、慌てて強く手を振ると、そいつは板の間を囲炉裏の方まで転げていった。
「そったらもの、食っちゃなんねど。それはドライアイスつうもんだ。」
と、父親が炉端から振り向いて言った。
 父親の話によれば、ドライアイスというのは空気に触れると白い煙になって跡形もなくなる氷だという。軽くて、とけても水にならないから、紙袋の中を冷やしたりするのに都合がいい。東京の上野駅から近くの町の駅までは、夜行でおよそ八時間かかる。それからバスに乗り換えて、村にいちばん近い停留所まで一時間かかる。それで父親は、そのドライアイスをビニール袋にどっさりもらって、道中それを小出しにしながら来たのだという。
 そんなにまでして紙袋の中を冷やし続けなければならなかったわけは、袋の底から平べったい箱を取り出してみて、初めてわかった。その箱のふたには、『冷凍食品 えびフライ』とあり、中にパン粉をつけて油で揚げるばかりにした大きなえびが、六尾並んでいるのが見えていた。えびフライといっても、まだ生ものだから、父親は家へ帰り着くまでに鮮度があやしくなったらいけないと思い、ただこの六尾のえびだけのために、一晩中、眠りを寸断して冷やし続けながら帰ってきたのだ。
 それにしても、箱の中のえびの大きさには、姉と二人で目をみはった。こんなに大きなえびがいるとは知らなかった。今朝釣ってきた雑魚のうちでいちばん大きなやつよりも、ずっと大きいし、よく肥えている。
「ずんぶ大きかえん? これでも頭は落としてある。」
 父親は、満足そうに毛ずねをぴしゃぴしゃたたきながら言った。いったいどこの沼でとれたえびだろうかと尋ねてみると、沼ではなくて海でとれたえびだと父親は言った。
「これは車えびつうえびだけんど、海ではもっと大きなやつもとれる。長えひげのあるやつもとれる。」
 父親が珍しくそんな冗談を言うので、思わず首をすくめて笑ってしまった。
 午後遅く、裏の谷川のよどみに漬けておいたビールを引き揚げて戻ってくると、隣の喜作が独りで畦道をふらついていた。隣でも父親が帰ったとみえて、真新しい、派手な色の横縞のTシャツをぎごちなく着て、腰には何連発かの細長い花火の筒を二本、刀のように差していた。
「父っちゃ、帰ったてな?」
 喜作は一級上の四年生だが、偉そうに腕組みをしてこちらのぬれたビールをじろじろ見ながらそう言うので、
「んだ。」
とうなずいてから、土産は何かときかれる前に、
「えびフライ。」
と言った。
 喜作は気勢をそがれたように、口を開けたままきょとんとしていた。
「……なんどえ?」
「えびフライ。」
「……えびフライって、何せ。」
 それが知りたければ家に来てみろ。そう言いたかったが、見せるだけでももったいないのに、ついでに一口と言われるのが怖くて、
「なんでもねっす。」
と通り過ぎた。
 普段、おかずの支度はすべて姉がしているが、今夜はキャベツを細く刻むだけにして、フライは父親が自分で揚げた。煮えた油の中でパン粉の焦げるいいにおいが、家の中にこもった。四人家族に六尾では、配分がむつかしそうに思われたが、父親は明快に、
「お前と姉は二匹ずつ食え。おらと婆っちゃは一匹ずつでええ。」
と言って、その代わりに、今朝釣ってきた雑魚をビールの肴にした。串焼きにしたまま囲炉裏の灰に立てておいたのを、あぶり直して、一尾ずつ串から抜いてはしょう油をかけて食った。ビールは三本あるから、はらはらして、
「あんまり食えば、そばのだしがなくならえ。」
と言うと、父親は薄く笑って、
「わかってらぁに。人のことは気にしねで、えびフライをじっくと味わって食え。」
と言った。
 揚げたてのえびフライは、口の中に入れると、しゃおっ、というような音を立てた。かむと、緻密な肉の中で前歯がかすかにきしむような、いい歯ごたえで、この辺りでくるみ味といっているえもいわれないうまさが口の中に広がった。
 二尾も一度に食ってしまうのは惜しいような気がしたが、明日からは盆で、精進しなければならない。最初は、自分のだけ先になくならないように、横目で姉を見ながら調子を合わせて食っていたが、二尾目になると、それも忘れてしまった。
 不意に、祖母がむせてせき込んだ。姉が背中をたたいてやると、小皿にえびのしっぽを吐き出した。
「歯がねえのに、しっぽは無理だえなあ、婆っちゃ。えびは、しっぽを残すのせ。」
と、父親が苦笑いして言った。
 そんなら、食う前にそう教えてくれればよかった。姉の皿を見ると、やはりしっぽは見当たらなかった。姉もこちらの皿を見ていた。顔を見合わせて、首をすくめた。
「歯があれば、しっぽもうめえや。」
 姉がだれにともなくそう言うので、
「んだ。うめえ。」
と同調して、その勢いで二尾目のしっぽも口の中に入れた。
 父親の皿には、さすがにしっぽは残っていたが、案の定、焼いた雑魚はもうあらかたなくなっていた。

 翌朝、目を覚ましたときも、まだ舌の根にゆうべのうまさが残っていた。あんなにうまい土産をもらったのだから、今朝もまた川へ出かけて、そばのだしを釣り直してこなければなるまいと思っていたのだが、その必要はなかった。父親が、一日半しか休暇をもらえなかったので、今夜の夜行で東京へ戻ると言いだしたからである。どうりで、ゆうべは雑魚の食い方が尋常ではないと思ったのだ。
 午後から、みんなで、死んだ母親が好きだったコスモスとききょうの花を摘みながら、共同墓地へ墓参りに出かけた。盛り土の上に、ただ丸い石を載せただけの小さすぎる墓を、せいぜい色とりどりの花で埋めて、供え物をし、細く裂いた松の根で迎え火をたいた。
 祖母は、墓地へ登る坂道の途中から絶え間なく念仏を唱えていたが、祖母の南無阿弥陀仏は、いつも『なまん、だあうち』というふうに聞こえる。ところが、墓の前にしゃがんで迎え火に松の根をくべ足していたとき、祖母の『なまん、だあうち』の合間に、ふと、
「えんびフライ……。」
という言葉が混じるのを聞いた。
 祖母は歯がないから、言葉はたいがい不明瞭だが、そのときは確かに、えびフライではなくえんびフライという言葉をもらしたのだ。
 祖母は昨夜の食卓の様子を(えびのしっぽがのどにつかえたことは抜きにして)祖父と母親に報告しているのだろうかと思った。そういえば、祖父や母親は生きているうちに、えびのフライなど食ったことがあったろうか。祖父のことは知らないが、まだ田畑を作っているころに早死にした母親は、あんなにうまいものは一度も食わずに死んだのではなかろうか――そんなことを考えているうちに、なんとなく墓を上目でしか見られなくなった。父親は、少し離れたがけっぷちに腰を下ろして、黙ってたばこをふかしていた。
 父親が夕方の終バスで町へ出るので、独りで停留所まで送っていった。谷間はすでに日がかげって、雑魚を釣った川原では早くも河鹿が鳴き始めていた。村外れのつり橋を渡り終えると、父親はとって付けたように、
「こんだ正月に帰るすけ、もっとゆっくり。」
と言った。すると、なぜだか不意にしゃくり上げそうになって、とっさに、
「冬だら、ドライアイスもいらねべな。」
と言った。
「いや、そうでもなかべおん。」と、父親は首を横に振りながら言った。「冬は汽車のスチームがききすぎて、汗こ出るくらい暑いすけ。ドライアイスだら、夏どこでなくいるべおん。」
 それからまた、停留所まで黙って歩いた。
 バスが来ると、父親は右手でこちらの頭をわしづかみにして、
「んだら、ちゃんと留守してれな。」
と揺さぶった。それが、いつもより少し手荒くて、それで頭が混乱した。んだら、さいなら、と言うつもりで、うっかり、
「えんびフライ。」
と言ってしまった。
 バスの乗り口の方へ歩きかけていた父親は、ちょっと驚いたように立ち止まって、苦笑いした。
「わかってらぁに。また買ってくるすけ……。」
 父親は、まだ何か言いたげだったが、男車掌が降りてきて道端に痰を吐いてから、
「はい、お早くう。」
と言った。
 父親は、何も言わずに、片手でハンチングを上から押さえてバスの中へ駆け込んでいった。
「はい、発車あ。」
と、野太い声で車掌が言った。


                           (平成18年版 中学校『国語2』 光村図書出版)