大和武尊の伝説
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 倭姫命に「くさなぎの剣」をもらって賊を征伐に出かけた日本武尊が、毒矢にかかって、傷をおい、醒井の清水でその傷をあらい清めたが、なおらず伊勢の「能ぼ野」で亡くなってしまった。それを聞いた美濃の人達が、日本武尊の勇気ある行動などをたたえ、伊吹山山頂に日本武尊の石像を建てたといわれている。
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 その昔、日本武尊が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き、その荒神を征伐するために伊吹山に登られたが、山の神は大蛇に化身して道に現れた。その時、日本武尊はこの大蛇を見て「これこそ山の神の使者であろう。」と言われた。日本武尊はこの山の神の毒気にあたって熱を出し、下山して熱を冷まされ、伊勢に行かれ、その後なくなられた。
 こうしたことから上野村の人々と尾張の国の有志の人々が明治四十五年六月(今から六十五年前に武尊の石像を山頂に運び、大正元年十月に建てられ供養が行われ、今も山頂にまつられている。 
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 伊吹山に盗賊が住んでいた。そして今の伊吹町へ夜になると降りてきて、ふもとの村々の大切なものを盗んで山へ運び込んでしまう。村の人達は大男であるためにだれも退治することができない。ふもとの村へ通りがかりに立ち寄った日本武尊は、村人の話を聞いて退治してやろうと言った。
 日本武尊のお母さんが、「武尊や、お前の身にもしものことがあったら、お母さんは生きていられない。どうかやめておくれ。」と、言った。「お母さん、村人達が苦しんでいるのを見てはいられない。何としても退治して村人を安心させてやりたいんです。どうかお母さん、伊吹山へやらせてください。」「それなら私もついて行きたい。」「お母さん、ここから上は女人禁制の山です。ここから帰ってください。」お母さんは、岩に手をかけてはらはらと涙を流した。その涙が岩に伝って二本のすじを作った。それが八合目の雨降岩。お母さんが手をかけたのが、手かけ岩、今でもその岩があります。
 武尊は、族を退治した時に、毒蛇にかまれて命からがら降りてきた。今の醒井の泉でかまれた所を洗ったら、目がさめた。それで醒井と名付けられた。そして、伊勢まで歩いて帰られ亡くなられた。
 伊吹山頂の日本武尊の石像は、伊勢を向いて建てられています。