○昔の体験 @(戦争当時)−
 私たち少年時代は、吉槻の東草野尋常高等小学校で1年生から6年生それに高等科の2年まで1つの校舎で学び、それに板並、曲谷(安場)甲津原にそれぞれ分教場があり、1人の先生が1年生から4年生までの4学年を複々式で指導され、1年生を教えられる時は他の三学級は宿題で自習している。
 11月からの冬期は、5、6年の兄さん姉さん達が分校に帰ってきました。1、2、3年は一階教室で、4、5、6年は2階教室でした。暖房は、現在のようなストーブではなく、1教室に1m角の箱火鉢に炭火をおこし、それが一個で暖を取り、手をこすりこすり息を吹きかけて勉強しました。
 服装は、洋服などはまったくなくて着物姿でした。入学式、祝祭日にはみんな羽織、袴をはいて参列し、お正月にはみかん、紀元節、天長節にはおまんじゅうなどをもらって喜んで帰宅したものです。
 子供たちの遊びといえば、夏は男子は竹馬、水鉄砲、竹機関銃等を作って兵隊ごっこ遊びをしました。夏場は小泉発電所のできるまでは、姉川水もずっと多く、川での水泳、それに琵琶湖より小鮎がずっと逆上りをしたので、小川をせき止め、小鮎の手つかみで夕飯のごちそうにしたものです。冬場は、タコを作ってタコ上げをして元気に寒さに負けず遊びまわったものです。女子の遊びはコンメ遊びです。冬場となればメンコ(パンコ)遊び、しじみ貝でボン遊び、小石を集めてハジキ遊びです。
 年間の現金収入と言えば現在と比べ身を切るような重労働で、尊き一円を得るにもそれは大変であった。冬期11月末となれば積雪も1・5mから2mは毎年の事、山仕事にも行く事ができず、4人5人と1軒の家に同僚が集まりわら仕事、ぞうり、わらじなどは百足作った、百五十足作ったと自慢話をしたものです。子どもの通学には現在のように靴帽子洋服はなく、晴天の日はみんなぞうりで、雨が降れば傘に下駄で、五年生以上は本校まで四キロの道を毎日元気に雨の日も風の日も通学しました。冬は、雪が積もると、父さんが作ってくれたわら靴をはいて、女子はモンペ、男子はユキバカマで登校したものです。
 現金収入と言えば、戦前ははとんどの家に牛を飼い、現在の如く農機具はなく、皆牛の力を借りて田んぽをすき、耕し、その他の労力に農閑期には子牛の生産、東草野産の子牛といえば名声高く、本校々庭にて春秋二回の子牛市が開かれ、遠く兵庫や岡山県の方より買い求めに多くの人(牛売買人)が来て、にぎやかに市が立ったものです。
 それに夏場は養蚕が盛んでどの家にも毎日が忙しく子ども達も桑取りに尻変(しりがえ、糞を取り除く)作業の手伝い、約一カ月で上族まゆとなり、お寺の本堂に見本を持ち寄り、多くのまゆ買人が来て競売が始まる。だがそれまでの苦労が大変で、現在は全く姿が見受けられませんが、畑や田の畦、屋敷内には大きな桑の木が植えられ、長き梯子にて朝早くから夕方遅くまで叉は奥山へ桑の葉を取りに出かけ養ったものです。上族すれば、まゆ棚は家中が一杯で寝る所もなく蚕棚の間で蚊に喰われながら寝込んだものです。
 今日のような豊かな生活は夢にも望めず、御飯といえば、七分三分の麦飯で現金収入とて父母は早朝4時5時となれば山仕事に出かけ、炭焼きを生業とする人、雪解けて春となれば10km以上の山中に入り、柴狩り、夏になればそれを束ね、秋には2束3束を背で負い持ち帰り、今の子どもは全く知らぬ大八車に8束10束と積み朝2時3時となれば毎日長浜近在に出向き、5円6円と売上げ、生活必需品を買い求め、冬篭もりの準備としたものです。
昭和6年満州事変が始まり拡大するに従って若き者は年を追って戦場へ私も昭和12年3月満州東部汾河の国境警備に匪賊討伐に出征12年12月終わり初年兵教育に山口歩兵第42聯隊に転属一期の教育を終えました。三月初年兵と共に北支に出征北京を経て石家荘にて始めて敵と交戦、それ以来北支各地転戦、中支までも転戦、幾度となく各地の戦闘に参加、20年第一軍司令部にて終戦を向かえました。翌年21年4月復員長崎佐世保港に上陸、内地の荒廃特に長崎、広島の原爆による灰土に化したる現実を見、唯々胸がつまりました。我々は何がため10年間戦って来たか、多くの戦友を異国に残し、滅死奉公とはなんであったかと戦争の恐ろしさを残酷さ敗戦の惨めさを永遠に忘れることなく次代に言い伝え、二度とこの惨めさ残酷さを繰り返さぬよう言い伝え現在のこの幸福をいつまでも永遠に。
 今日尚銃火を交え戦火に追われ、住む家とてなく逃げまどう住民、同胞のあることを思い、我が郷土の豊かさを思うとき、異国の地に護国の神と化せし戦友の身上を故国を思いし忠誠を無にしてはならぬことを痛感致しております。
○昔の体験A(小学校)
  明治43年1月に伊吹山の中腹に生まれて大正5年4月1日に、細い山道と野道を通って母に連れられ上野小学校に入学しました。
  私が次々と浮かんで来る78年前の思い出をひ孫に話すと喜びます。
  「大ばあさんの初めて習った国語の本は、ハタ・ハタ・タコなどカタカナで、大きな字でした。三大節には校長先生の教育勅語「最敬礼」と言われると静かに頭を下げてまじめに聞きました。
 毎朝校庭で朝礼があり、いつも厳しいお話がありました。授業の始まりと終わりには、先生が交替で大きな振りんを鳴らして合図して歩かれた。お昼の弁当のお茶は大切な水をお釜で沸かして黒いやかんに入れて当番が持って歩いたのです。
 六年間弁当を持って、雨の日も風の日も通いました。大雪ともなると、親に送り迎えをしてもらい、子どもながらに一生懸命に勉強したことは忘れられません。今でも受け持ちの先生と校長先生のおもかげや、お名前、お所は覚えています。
  大正11年の3月卒業式の後に、教員室へ一人一人の先生にお礼に言ってお別れして泣いてさみしく出た学校でした。3里や5里と歩いた道が今ではすべて自動車ばかりです。今の子供たちには想像もつかないでしょう。
 正門を入る両脇の大きな土手にぼたん桜の木が何十本かありました。4月中旬ともなると、花盛りで大変きれいでした。教員室が真ん中で6教室と宿直室、1年生の教室の上だけ二階があり、大きな木を2本使ってつんばりして畳の部屋の裁縫室でしたが暴れるとぐらぐらと危ないくらいでした。
 門を上がった所に狭い長い運動場があり、春と秋との2回の運動会が楽しみでした。今から思うと走る場もないような所で1等や2等やと頑張って競走したことも思い出されます。
 20年程たってわが子の学校へ行った頃は戦争の真っ最中で、尋常高等小学校となり、運動場も別で大きくなり、校舎も増えて広くなっていた。孫の入学した時は、昔の面影は少しもなく、体育館が建って、校舎は木造でしたが、立派でした。土手の桜も切られて高い石垣が積まれ、とてもきれいでした。運動場は良い庭先となってしまった。でも桜はちょっとおしい気がしました。
 今では、ひ孫まで入学して、学校でお世話になっていることが、不思議に思うくらいです。同窓の級友38人が今は10人足らずになりました。時々診療所へ行くと呆然と立ってながめ、80余年前の学校を思い浮かべて、遊具で興じる子どもの声に耳を傾けて聞いています。
 私の子どもの時は電気もなかったのに・・・・・・どれ程ともはかり知れない人々のお陰と感謝するばかりです。ひ孫に囲まれ今日の今を大切に力強く生きて参りたいと念じます。
 生かされて 生きるよろこび かみしめて
   今日も生きゆく 老いの短か日
○昔の体験 B(小学校)
 この世は、夢のまた夢、思いもよらぬ長生きをさせてもらったおかげで小学生時代の思い出を書くことができます。
私は、大正13年4月、↓野尋常高等小学校に入学することができました。その時代の服装は、筒柚の着物で袖なしの「デンチコ」を着て、6尺の帯をしめ前掛けをして、足にはわらぞうりをはき、入学式に参列しました。同級生は40名、通学には、雨の日は下駄、雪の日はわら深くつ、本はふろしきに包みました。男の先生は洋服、または着物、女の先生は着物に袴か洋服を着ておられました。ゴムくつ、帽子、カバンなどは6年生になって何人かが使うようになりました。
 入学式では、校長先生が天皇皇后両陛下のご親影を奉安殿より式場へ移され、君が代を斉唱し教育勅語を奉読されました。学校の正面入口に日の丸の旗が十文字に立ててありました。祝祭日は必ず同じ行事がありました。終わりますと、まんじゅうかみかんをもらったうれしさを忘れることはできません。
 ここで、学校の建物と教室について述べます。現在の体育館とこれに通じるろう下付近に1、2、3年の教室。校庭に走り幅跳び場、砂場、道路より石段校門、両側は桜の大木がありました。正面が入り口で、校門の石柱は今も変わっていません。正面入り口右側が教員室、そのとなりが四年生教室、そのとなりのろう下を通りぬけ、便所と小使い室、正面入り口の左側は休養室、そのとなりは予備室、そのとなりがろう下で、さらに五、六年教室と並び、式の時は、5、6年の教室が大広場となりました。
 今まで書いた建物は、全部平屋建てであります。運動場の県道側に二階建てで、一階が高等1年と木工教室で二階が高等2年と予備教室、運動場東南側に二階建てで一階唱歌教室、二階裁縫室と記憶しています。
 五年になったら、大久保分校より20名の同級生が釆ました。一教室に63名、「机いす二人用」 机を角から角まで並べても、′並べられないほどでした。昼の食事について話しますと、上野の生徒は家に帰って食事し、他の生徒は弁当を持ってきました。冬の教室の暖房は、教壇付近に1メートル四方ほどの木の火鉢に炭火をたいてくれました。授業二時間が終わりますと、その上に網を置き弁当をあたためるので、そのなんとも言えないにおいがして、腹の虫がぐうぐうとなりました。
 また、正月の後には、もちを持って釆て焼いて、先生と共に食べたなつかしい思い出が今も目に浮かびます。
 ここで各学年の授業科目を言います。1、2、3年生は修身、国語、算術、折紙、図工、体操、唱歌で、4年生になると、図画、書き方、理科、5年生で、男子は木工、女子は裁縫、六年生で歴史、高等科で農業と科目が増えてきました。
 歴史の授業では、特に日本の国の尊さ、ありがたさを懇々と教えられました。体操では、疾走、バトンクッチ、跳び箱、鉄棒を練習しました。
 六年生の時には、肩にかけるカバンを買ってもらいました。でも鉛筆一本一銭、消しゴム一個一銭がなかなか買ってもらえなかったのです。
 私は、昭和53年3月に小学校六年を卒業、義務教育を終わりました。そして、高等科1年生に進学させてもらい、同級生は52名だったと思います。その頃運動場も広くなりました。
 この頃、恐ろしい火事がありましたので、木工時間に拍子木を作り、夜の八時頃より拍子木をたたき大声で、火の用心と伝えながら字の一部をまわっているうちに友達が次から次へと仲間になり、消防団よりりんをもらい、少年夜警を始め、字中をまわったのが、今でも続けてくれていますので、ありがたく感謝しています。
 養蚕について話します。昔は農家の副業として、大切な仕事でした。学校付近は、一軒の家もなく、畑ばかりでした。字の畑は、全部が桑の木でした。家の中は、蚕の棚でいっぱいでした。学校から帰っても勉強より、仕事をして、夜はみかんの箱を机に勉強しました。・電灯は家に一方所だけで、それでは暗いので石油ランプの光でがんばりました。
 高等科になって、農業の授業になると着物をかえて農場へ行きました。農場は、学校の東側少し離れた所にありました。農場では、野菜作り、菊作りを教えてもらい、その肥料として学校の便所の人糞を使いました。それの運搬には苦労しました。
 運動会は、春と秋の二回実施され、特に秋の大会には、各字別対抗リレーや山東部五力村で行われ、学校より選手として800メートルに出場したことです。成績はまずまずでした。
 先生に引率され、優勝旗を持って帰ったときに生徒がみんな出迎えてくれたその時のうれしさを忘れることはできません。
 昭和7年11月に初めて山東部の赤十字運動会が始まり、四年生以上が参加し、各種目競技で、総合準優勝で花輪をいただき全校が喜びにつつまれました。高等2年生を無事に昭和7年三月に卒業しました。
昔の体験