伊吹山
○伊吹山経塚−伊吹山@−

 伊吹山の山頂に 一坪ほどの場にこぶし大の白石が積んであった。昔からこの山に登ると腰が痛くなるとか、ばちがあたるとか言い伝えがあった。それを地元の者、五、六人でつぶしたけれど何もなく、その代わり一厘銭が十個程と割れたカワラケが五、六枚出てきた。この地点から百坊に続く尾根を見ると、百坊跡をはっきりと望むことができる。
 この百坊は、織田信長に焼き払われたものであって、その折りにお経をそこにうめたものにちがいないものと思われる。
○経塚−伊吹山A−

 伊吹山八合目に高さ約五メートル、幅約三メートルの岩があり、行堂岩と呼ばれている。その岩は、昔鎌倉時代の頃、行基菩薩が行をされたと伝えられている。
 また、頂上の山小屋南側には小石に一字一字お経を書かれた小石の山があり、経塚と呼ばれている。その中から古銭が見つかったことがあるという。多分その経塚にお参りに来られた人がほり銭されたのでしょう。
 
○伊吹山の経塚−伊吹山B−

 伊吹山は、昔は山嶽仏教の修行の山でした。東に弥高百坊といって、たくさんのお寺があり、西には大平寺にお寺がありました。伊吹山八合目に行堂岩があり、ここで出家の大家行基上人が修行されました。
 伊吹山は、明治四十年まで女人禁制といって、女性は登山ができませんでした。
 また、四合目に堂の谷という所があります。そこには立派な寺がありました。その寺は、ただ今、大原の観音寺です。今から百三十年程前、伊吹山より観音寺へ移転したそうです。それゆえ、伊富貴山観音寺と今でもいいます。
 伊吹山の頂上には、経塚という地名があり、昔、坊さんが小石にお経を一字一字書いて塚にされたところと言います。
○タコの化石−伊吹山C−

 今から思えば大分昔のことですが、私が伊吹山頂で茶店を営業しておりました。約四十五年前くらいでした。店の拡張工事に土地を広げんが為に八拾貫ぐらいの石をまくりますと、裏にタコの形がはっきりと現れました。頭も足も吸盤もはっきりしています。驚き入りまして杉沢の樋口元さんが登山されたから早速見せましたところ、 「これはめずらしき化石じゃ。」と、さっそく新聞社に知らされまして翌朝の紙上に「伊吹山頂のタコの化石」として報道されました。化石は今は測候所の玄関口にあります。化石は坂田郡史にも写真が出ています。
○うみうづりのこと−伊吹山D−

 伊吹山はな、むかしは火山やったんやと。それが噴火して、あない高うなったんやで。琵琶湖はもっと伊吹山の方にあってな、伊吹山が噴火してどんどん琵琶湖を埋めつくし、どーんどん向こうへ行ったんやと。それで、伊吹山には、貝の化石「うみうづり」がいっぱい出るんやで
○伊吹弥三郎にまつわる話−伊吹山E−

 昔、伊吹山には、大男の武将が住んでいました。この武将は力が非常に強く、身体は大変大きく、だれが来ても負けないし、山の中のどこにいるのかわからないが、何かあるとどこからか出てくるのです。
 伊吹山の中に住んでいるので柏原弥三郎、または、伊吹弥三郎が作ったといわれる百間廊下や泉水が、今でも頂上にあって、また、大きなため池が弥三郎の足跡ともいわれています。
○行者岩−伊吹山F−

 伊吹山八合目に行者岩があります。この岩についてお話を聞きました。
 昔、奈良朝時代に役行者(えんのぎょうじゃ)という人がいました。この人は修験道の祖といわれるひとでした。この行者が伊吹山の行者岩に修業しておられたそうです。その名声は宮中まできこえたそうです。
 ある年に天皇が、ご病気にかかられ高熱が下がらず、おそばの用人や各大臣が心配のあまり役行者を招き、病気を治すために祈願をしてもらおうと使者を行者岩の道場につかわされた。使者は陛下の病状を行者に話し、 「ぜひ、朝廷に来て祈願をお願いする。」と頼んだが、役行者は「大切な修業中ゆえ、お断りしたい。」と受ける様子もなく、使者は困りはてて、「この土地は陛下のお治めになる土地、大恩ある陛下の要請なれば、万難を排して来てくれるように。」と願われた。すると、行者は「一本の杖を立ててその上に座っているから土地は借りていないから・・。」と断られたそうです。すると使者はなお懸命に「役行者よ。その杖の下では大地が支えているではないか。ぜひともお願いする。」と懇願され、行者も返すことばもなく都へ上がられました。その速いこと、空を行くが如く、琵琶湖の上を横切って都に着き病気全快の祈祷をしたところたちまち全快されたということです。
 それで、この世に役行者のことを「飛行上人」ともよんだということです。
○孫助岩−伊吹山G−

 伊吹山には、大きな谷がたくさんあります。
 弥高川の上流は大谷といって、水量も多く、六十年ほど昔までは、上野の人は草刈りや柴刈りに行ったところでした。柳谷支流は、軟水が湧き出て、飲用水には一番うまい水の出る所だということです。
 堂の谷支流と本流の合流した所に、孫助岩があり、これは、二千貫とも三千貫(約八トン〜十二トン)ともいわれる大きな岩で、岩の上には草や木が生えています。この岩は大洪水があるたびに少しずつ上流へのぼっていくのだということです。姉川のセビ合(小泉地先)にも、落岩という大きな岩があり、上流へ上っていくのだということです。
 孫助岩の名は、昔孫助というおじいさんが、いつもこの岩の上で休んだり、昼食をしたり、自分の家の庭石のようにしていたので、だれというともなく孫助岩というようになったのだということです。
 おじいさんの子どもの頃。おじいさんやおばあさんから聞いた話です。
○権現(ごんげん)さん−伊吹山H−

 伊吹の山に、「ごんげんさん」と言う神様があります。その神様は、火の神様だそうです。その山に大木があったので、昔の人がその木をきられたそうです。そうしたら、伊吹に大火があったのです。その後、毎年三月十七日には、ごんげんさんに字の人が交代に神主様とお参りされます。
 それ以後、木は切っていませんので、周囲の木が大きくなっているそうです
○生き仏幡隆上人−伊吹山I−

 六月の初めに降りかけた雨が七月が終わろうとするのに、一向にやみそうにもないのです。百姓たちは困りきっていました。
 「草取りもできぬわ。」「この雨じゃ草取りどころか、米もとれず。」
 二、三人寄ると、こう語っています。そのあげくこの原因はきっとあれだというのです。
 天保元年頃、伊吹山頂の八ツ頭(行者岩)の大岩の下で鐘鼓をならし読経する行者がありました。この人を幡隆上人といったのです。この上人は火を使ったもの、塩気のものはいっさい食べずそば粉を水でかいて食べていました。この幡隆上人がいるから雨が降り続くのだというのです。付近の百姓たちは相談して、上人に下山してくれと頼みました。上人は、こころよく、百姓の申し出を聞き、岐阜県笹又の南長尾という所に草庵をたてたのでした。上人が下山する日は常にない大雨でし
た。しかし、上人は雨傘もかぶらないで山を降りました。「お上人様を見てみよ。」と迎えに出た村の一人が叫びました。何としたことでしょう、上人の衣はこの雨に少しも濡れていないので、村人の驚きは大変なものでした。上人草庵から出るときは、暗夜に火をともさないで、ただ念仏を唱て往来したというのです。 普通では考えられないようなことが数々ありました。 いつしか村の人たちは幡隆上人は「生き仏様だ」というようになり、遠近より上人をおがむため多々の人が来たということです。のち一心寺を建立し、笹又には幡隆上人の地尊もあります。多々の人に悦を与えた上人は、天保十一年加茂郡太田で、この世を去りました。