後編-2 【宮城県・山形県・福島県】

早朝野営場から岳温泉に向かう途中、
安達太良山を望遠しました。
3.5kmで岳温泉到着です。
高校生の時始めて登ったのが安達太良山です。
岳温泉で合宿、懐かしくて
その時泊まった旅館 『水戸屋』 を探しましたが
見当たりませんでした。
更に3.5kmであだたら高原ゴンドラ駅です。丁度駐車場で日の出となりました。高原はコスモスが満開でした。
ゴンドラで標高1700mの8合目まで行き、安達太良山頂上まで90分の山歩きになります。
青いライトバンはゴンドラ会社の人で風が強いので運行中止との事、復旧の見通しは無いとの事でした。
仕方がないので登山道を登る事にしました。くろがね小屋経由安達太良山頂へは5時間コースです。
登山途中で出会った地元の人で安達太良山には
もう100回以上登っているとの事、
一緒に登って来ましたが雨が降り出し悪化の模様、
退却も決断の一つです。再度の登山を胸に
ここ勢至平で別れて下山する事にしました。
途中の水場烏川です。
彼の説明によると酸性が強く、魚が住めない水なので
飲まない様にとの事でした。
しかし高校時代の初山登りではここでがぶ飲みした事を
思い出しました。
下山途中でゴンドラが動き出し、
天気も回復、再度登山を決行する事にしました。
ゴンドラの終点薬師岳です。
ゴンドラ10分で薬師岳山頂です。安達太良山への登山道にある柱には知恵子抄の本当の空がありました。
今日は曇りで本当の空は見えません。安達太良山は雲の中ですが眼下には景観が広がっていました。
まだ時間があるので再度安達太良山アタックを決断しました。
安達太良山山頂へは約80分で到着、強風の中頂上で10分休憩、50分掛かり下山してゴンドラ頂上駅に戻りました。
ゴンドラ駅にある1軒宿、富士急ホテルで汗を流して疲れを取り旅を続けました。
土湯温泉⇒磐梯吾妻スカイラインで37km先の浄土平を目指しました。
曇り空でしたが、磐梯吾妻スカイラインでは
快適なドライブを堪能しました。
磐梯吾妻スカイライン途中の天狗の庭です。正面が吾妻小富士です。ここは紅葉で有名です。
ここから吾妻小富士に登ります。
風が強く、時々横殴りの雨が降り出します。
吾妻小富士へは頂上まで階段が続いています。写真はなだらかですがもう少し急坂です。
登山途中からの浄土平です。約20分で頂上の噴火口です。
高原道路は磐梯山の北側の檜原湖・秋元湖・小野川湖を縫って走る磐梯吾妻レークラインに入ります。
檜原湖・秋元湖・小野川湖が同時に望遠できる場所、三湖パラダイスです。
涼風峠は標高900m、小野川湖が見渡せます。
約5kmで五色沼に到着です。磐梯山の噴火で出来た8つの沼があります。
毘沙門沼⇒赤沼⇒深泥沼⇒竜沼⇒弁天沼⇒瑠璃沼⇒青沼⇒柳沼です。
気象条件で沼の色が変化すると言われています。全長3.6km、往復2時間の散策です。
毘沙門沼の正面が磐梯山です。
宿泊予定地の天神浜オートキャンプ場より
遥か手前ですが、急遽近くの国民宿舎五色沼に
宿泊する事にしました。

27日(月) 走行距離   132.3km
早朝国民宿舎を出発、
今日は今回の旅で始めて本格的な雨です。
磐越自動車道の猪苗代磐梯高原IC⇒郡山東ICを
経由して62kmで三春ダムに到着です。
約5kmでシーズンにはTVニュースにも登場する日本三大桜の三春滝桜です。
天然記念物に指定されています。それはそれは見事な巨樹でした。
20kmで天然記念物の入水鍾乳洞です。残念ながら早朝の為入場出来ず次の目的地に移動しました。
約5kmであぶくま洞に到着です。
磐城セメント(株)・住友セメント(株)の石灰石採掘場でしたが
1969年(昭和44年)発見、今現在公開されているのは600m、
未公開の部分がまだ3km以上あるそうです。
あぶくま洞への入口です。
入ると見所はカラフルなライティングがしてあります。神秘的な世界を展開しています。
余りにも自然と懸け離れていて如何かと思わなくはないが幻想的な美しさには見とれてしまいます。
石化の樹林です。
滝根御殿 と 竜宮殿です。
隣に星の村天文台がありました。
東北最大の65cm反射望遠鏡があり
天体観測が出来るとありました。
磐越自動車道の小野IC⇒猪苗代磐梯高原IC経由85kmで
野口英世記念館です。
野口英世の生家です。
赤ん坊の頃、英世が落ちて左手を火傷した
囲炉裏です。
母・シカがアメリカにいる英世に送った手紙が
写真と共にありました。
幼い時に覚えた字を思い出しながら必死に書いた
手紙で 「帰ってきてくだされ」 という
切実な母の願いを綴っています。
帰国して撮影した写真です。
小雨の猪苗代湖沿いに約10kmで
名水の強清水に到着です。
旧白河街道と旧二本松街道の分岐点にあり、昔は峠の茶屋があったそうです。
この名水には以下伝説が語り継がれているそうです。
15kmで飯盛山です。慶応四年(1868年)8月22日、 松平容保は、 西軍進攻の知らせを受け、
戊辰戦争の時、藩主の親衛隊として組織された、15歳から17歳の少年たちからなる白虎隊40名に出陣を命じます。
少年たちは初陣に胸躍らせて戦場へと 向かい勇敢に戦いますが、力及ばず退却となってしまいます。
飯盛山へとやっとの思いでたどりつきますが、ここで炎に包まれた鶴ヶ城と城下を目前にし、
残った19人はいさぎよく藩主に殉じようと自刃します。幕末の悲しい歴史です。
飯盛山への入り口です。
自刃した場所に建つ供養塔です。
自刃した場所からの鶴ヶ城と市内です。   以下は詩吟の一節です。

南鶴ケ城を望めば砲煙あがる 痛哭涙をのんで且彷徨す
宗社亡びぬ我が事おわる   十有九士腹を屠って斃る
白虎隊19名のお墓です。
戦場で散った21名のお墓は何処に・・・
ふと思いました。
松平容保公弔歌の碑です。

幾人の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽じとぞ思う

松平容保公は会津落城後は妙国寺に謹慎、
のち和歌山藩に移され、明治5年に謹慎を説かれ、
13年より東照宮宮司に任ぜられ、
のちの生涯は職のかたわら歌道にのみ没頭し
世を去ったとありました。
1384年に芦名直盛が築城し、伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝らが入場、蒲生氏の時代には七層の天守閣がつくられ
羽を広げた鶴に似た姿から鶴ヶ城と命名されたそうです。その後は、三代将軍家光の異母兄弟にあたる保科正之を初代藩主に
九代226年にわたって「松平氏」が代々の城主になったとありました。会津戊辰戦争(1868年)では、官軍の攻撃を受け、
籠城戦を展開したが力およばず開城、現在の天守閣は明治政府によって取り壊されたが昭和40年に再建されたそうです。
現在の天守閣は明治政府によって取り壊されたが昭和40年に再建されたそうです。
下右は天守閣からの展望です。生憎磐梯山は雲の中でした。
本丸の片隅に荒城の月碑がありました。土井晩翠はここ鶴ヶ城と仙台の青葉城を思い作詩をしたと言われています。
本丸跡に茶室麟閣があります。
蒲生氏郷はこの時代を代表する文化人で特に茶道では
利休七哲に挙げられる程だったそうです。
天正19年(1591年)千利休が秀吉の怒りに触れ
切腹を命じられると利休の息子、少庵を斯くまります。
その時少庵が氏郷の為に建てたと伝えられています。
閑静なたたずまいが何とも云えない雰囲気で当時を語っています。
約30kmで江戸時代の宿場の面影を今に残す大内宿です。この村を通る街道は、会津西街道や南山通り、
下野街道と呼ばれ、城下町会津若松と栃木県今市を結ぶ重要な街道でした。
ここを通る旅人や、参勤交代の大名行列も旅の疲れをこの宿場で癒していたそうです。
当時は会津から江戸に至る最短ルートとして、政治的・経済的に大変重要な街道だったそうです。
高倉神社とその境内からの大内宿です。大内宿の観光パンフレットには必ず登場する風景です。
10kmで塔のへつりに到着です。
阿賀川が百万年以上の歳月をかけて、浸食と風化を繰り返した結果出来上がった景観です。
岩には名前があり自然に付いた道を散策出来ます。
山岳道路を55kmで塩原温泉郷に到着です。
箒川沿いに暫く進むと今夜の宿に予定している渓谷沿いのオートキャンプ場グリーンビレッジがありました。
オートキャンプサイトです。
寝しなにキャンプ場の露天風呂で疲れを取り就寝、
疲労も重なり熟睡でした。
夕食は簡単にインスタント味噌汁に
餅を5個入れた雑煮です。

28日(火) 走行距離   294.5km
東北自動車道の西那須野IC⇒浦和IC経由、約170kmで千住の実家に到着しました。
昼前に着いてしまいました。以外に近かったので驚きでした。
久し振りの里帰りなので、幼少の頃遊んだ近所を姉と散歩に出掛けました。
千代田商店街です。
実家は商売もしていないのに商店街にあります。
徒歩で10分、荒川放水路堤です。
昔はこんなに整備されてなくて自然がいっぱいあり、良く遊んだものです。
水も綺麗で、小学生の頃対岸まで往復するのが自慢でした。

29日(水) 走行距離   175.5km
早朝千住の実家を出発、首都高速経由、
東名横浜町田ICで下りて74.3kmで相模の霊園到着です。
墓参りして、学生時代の友人達と待ち合わせしている
箱根強羅に向いました。
箱根強羅駅の近くの今夜の宿 『パイプの煙』 に到着です。

30日(木) 走行距離   78.2km
学生時代の友人達と1年振りの再会です。
去年1番元気だった友人が他界、それにしても皆歳をとったものです。これからは毎年1回位は会いたいものである。
小生のスケジュールに合わせて呉れた仲間に感謝である。朝から雨で回復の兆しが無く解散となりました。
途中瀬戸市で粘土を仕入れ、三重県の湯ノ山温泉で最後の露天風呂を楽しみ、鈴鹿スカイライン経由で無事帰宅しました。

31日(金) 走行距離は   471.7km です。

あとがき】
東北の国立公園3ヶ所・国定公園8ヶ所の内10ヶ所を尋ねました。往きの敦賀⇒秋田はフェリーですが、
全走行距離4495.4km、東北の殆どを走破しました。物凄く広かったと言うのが実感でした。
途中メル友のmomijiさんに会い旅の思い出話に盛り上がったり、現役時代の友人達も2泊3日の旅に同行してくれたり、
又最期には学生時代の友人達も箱根で1泊して呉れて、多くの思い出も出来ました。
内容が充実していたので素晴らしい旅行記を書く事が出来ました。感謝の気持でいっぱいです。
来年の2008年 『日本の旅』 関東編でも一緒に旅が出来ればと願っています。
皆さん、有難う御座いました。

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