06. 山陰道(山口県・島根県・鳥取県)
早朝に道の駅おふくで朝食のサンドイッチと
缶コヒーで済ませて、早々に出発、
26kmで、青海島キャンプ場です。
青海島から眺めた長門市と青海島観光遊覧船乗り場での仙崎湾です。
約25kmで、萩城址の指月公園です。
日本海に面し、阿武川デルタ地の
指月山とその山麓に築城され、
別名指月城とも言われます。
1600年関ヶ原の戦いで敗北した西軍の総帥、毛利輝元は、旧領中国8カ国112万石から
周防・長門の2カ国36万石に削封され、新しく居城したのが萩城とありました。
城内へは桝形虎口になっています。
防御に腐心して築城されています。
約4kmで、松陰神社です。
幕末の思想家・教育者である吉田松陰を
祭神とする神社で、現在でも
学問の神として崇敬されています。
土佐藩の坂本龍馬、薩摩藩の田上藤七、長州藩の久坂玄瑞が、
1862年このあたりにあった鈴木勘蔵の宿屋で語り合ったそうです。
史跡、松下村塾です。
吉田松陰が1857年、主宰した私塾です。
当時からここにあり、明治維新を
成し遂げた、数多くの人材が育っています。
門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文
、山県有朋 等々います。
松下村塾の講義室です。
松陰の実家、杉家の旧宅です。当時よりここに建っていました。
1955年12月、萩城下の野山獄より出牢した松陰はこの邸内の3畳半の1室に幽囚され、
ここで家族などに講義が行われ、これがやがて松下村塾の教育に発展したそうです。
松陰の実家、杉家の旧宅と幽囚された3畳半の1室です。
約2.5kmで、萩城下町です。
駐車場に山県有朋像がありました。
松下村塾で学び、後に総理大臣を
務めました。
城下町の街並みです。
伊藤博文は幼い日にこの寺に預けられ、
雑用をしていて、高杉と伊藤は境内で
よく遊んでいたそうだ。
円政寺本堂の天狗の面です。
幼き日の高杉晋作は体が弱かったので、
母親がこの天狗面を見せて度胸を
つけさせたそうです。

木戸孝允旧宅です。長州藩士、吉田松陰の門下生で8歳の時桂家に養子に入り桂小五郎と

名乗りました。尊攘運動に参加、薩長同盟を結んで倒幕運動を指導、維新政府の中心となり、
「五箇条の御誓文」起草に参画、版籍奉還・廃藩置県を推進した明治維新の中心政治家です。
高杉晋作誕生地の表門と自宅です。
高杉晋作誕 初湯の井戸と高杉家伝来鎮守堂(晋作遺愛品が入っていた)です。
約3.5kmで、
毛利家菩提寺の東光寺です。
第3代長州藩主毛利吉就により建立され、
本堂(大雄宝殿)、総門、三門、鐘楼は
いずれも国の重要文化財で往時の隆盛が
忍ばれます。
重要文化財の三門です。
重要文化財の本堂(大雄宝殿)です。
本堂に並んで、
吉就ら5藩主とその夫人の墓があります。
墓前には藩士が寄進した500余基の
石灯籠が並んでいます。
境内に吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の
墓もありました。
約50kmで、山陰の小京都、津和野です。
殿町通りを散策しました。
亀井氏11代に仕えた家老の多古家の
老門です。
藩校の養老館址です。代々の藩主が文武の奨励に力を入れたので、
西周・森鴎外・山辺丈夫等全国に名を馳せた賢哲が育ったそうです。
立派な門構えの武家屋敷が並び、掘割にはコイが泳いでいました。
カトリック教会です。
この聖堂は乙女峠の36人の殉教者の
遺徳を忍び讃えて1931年に建てられた
とありました。
堂内は大浦天主堂と同じとの事です。
ステンドガラスが奇麗でした。
約1.5kmで乙女峠マリア聖堂です。
明治維新後、この地に幽閉され改宗を
迫られた長崎浦上の隠れキリシタン
36名が殉教。この事件に心を痛めた
ドイツ人神父によって建てられたとの事、
堂内のステンドグラスがとても奇麗でした。
約130kmで、世界遺産の石見銀山です。
世界遺産センター前に駐車して、
路線バスで名所を巡ります。
路線バスで約10分で龍源寺間歩です。間歩とは坑道の事と説明されていました。
随所にノミの手掘り跡が見られます。
路線バス約20分で佐毘売山神社です。
鉱夫や里人から鉱山の守り神として
祀られてきた神社です。
約45kmで、
出雲保養センター出雲平成温泉です。
スポーツ公園内にある公の温泉施設です。
一汗を流して、夕食はここのレストランで
天ぷら定食としました。
¥1,000也、お値打ちでした。
約13kmで、道の駅キララ多伎です。
今夜はここで車中泊です。
日本海に沈む夕日です。
撮影にはちょっと間に合いませんでした。
道の駅、キララ多伎の早朝です。
ぶどうパンと缶コーヒーで朝食を済ませて、
早々に出発です。
今日も暑くなりそうです。
出雲市に入り奉納山公園の山頂にに上ると、約17kmで出雲手斧神社がありました。
建設業に御神徳があるとして崇敬される神社だそうです。
展望台のある山頂からは稲佐の浜 ・眼下の町並みが箱庭の様でした。
国引き神話の風景とありました。
約0.5kmで、出雲阿国のお墓です。
安土桃山時代の舞子で、
歌舞伎の創始者と言われています。
約1.5kmで、出雲大社です。
大国主命を奉り、縁結びの神・福の神
として親しまれています。
工事中の本殿の西にある神楽殿です。
長さ:13m、周囲:9m、重さ:5tの
注連縄は日本一の大きさです。
日本中の神様が集うと言う神々の
ふるさと出雲神話のシンボルです。
伊勢神宮に並ぶ古社との事です。
拝礼は
二礼四拍手一礼の方式で行います。
ムスビの御神像です。大国主大神が幸魂(さきみたま) ・ 奇魂(くしみたま) を拝戴する場面です。
これが縁結びの神と伝えられている由縁です。
大国主と因幡の白兎の話の像です。小学校低学年教科書にありました。
神楽殿裏手の鏡の池です。
稲田姫が鏡の池でその御姿を映して
化粧をされたと言う故事があるそうです。
約10kmで日御碕神社です。御祭神は 下の宮が天照大御神   上の宮が素盞嗚尊 です。
伊勢神宮が『日出る国』の守り神、『日沈む国』夜の世界を守ってくれる神社とありました。
楼門と下の宮です。
約1kmで、日御碕灯台です。
高さ:43.65m、日本一高い石造灯台です。
日御碕は自然の海蝕作用によってできた奇岩や絶壁が続き、
小島・岩礁が散在する変化に富んだ海岸になっています。
約37kmで、宍道湖の道の駅、
秋鹿なぎさ公園です。
マリンスポーツが体験できる施設が
ありました。
約11kmで、松江城です。
松江開府の祖・堀尾吉晴が1607年から
5年の歳月をかけて、1611年に築城、
城主は堀尾氏が3代、京極氏が1代で、
いずれも嗣子がなく断絶、
その後は信州から松平直政が入り、
以後松平氏が10代続き、
明治維新になったとありました。
松江城天主閣の展望です。
松江城内に1903年に明治天皇行幸時の迎賓館として建設された和洋折衷の洋館です。
約1kmで、小泉八雲記念館です。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は
1年3カ月松江で過ごしました。
八雲ゆかりの品々が展示されています。
直筆原稿や書簡、キセルや望遠鏡、
などの愛用品収蔵品等々です。
約25kmで、境港駅近くの
水木しげるロードです。139体の妖怪達の
ブロンズ像が歩道にあります。
夏休みで子供連れの家族で歩けない程
混んでいました。
一角に水木しげる記念館があります。記念館前の広場です。

鬼太郎と目玉おやじ

のんのんばあとオレ

鬼太郎と父さん

水木しげる像
水木ロードのブロンズ像です。
約20kmで、米子駅です。
チェックインには早かったので、松坂屋で食糧を
仕入れて、17:00駅前の米子ターミナルホテルに
チェックインしました。
夕食は寿司と食後のデザートは桃です。明日は
大山登山の為、AM.4頃チェックアウトの予定、
登山の荷造りをして早々に就寝しました。
約25km、1時間で、大山の登山口のある南光河原駐車場です。
予定通り明るくなって来たAM.5:30登山を開始しました。登山口の大山のおいたちです。
上りの連続、40分で4合目です。小休止です。
40分で6合目の避難小屋です。ここで休憩、雲の中で視界は殆ど無く、景色は見えません。
登山開始からずーっと登りの連続、遂に7合目です。依然ガスの中で視界30m位です。
50分で8合目です。8合目以上は幅1m程の木道です。
15分で9合目です。
9合目には大山頂上避難小屋があります。
10分で大山頂上(1710.6m)です。視界は益々悪くなり、10m位です。
避難小屋には御夫婦2組、中年の登山者が1人が既に休憩していました。
ゆっくり高山植物を撮りながら下山です。
70分で、6合目です。
6合目でやっと麓の視界が開けました。
元谷分岐を経て40分で元谷です。
崩壊進む大山北壁を見上げる大堰提、
頂上は雲の中です。大堰提を横切ると
大神山神社奥社は近くです。
下山しながら撮った大山の高山植物です。

シモツケソウ


クガイソウ


シコクフウロ


ヤマハハコ


エゾノヨロイグサ


ヤマホタルブクロ

約30分で大神山神社奥社に到着です。大国主の命を祀る大社です。
奥の院 参道脇に出る清水で、健康にも良いと
関西から汲みに来る人もいるそうです。
延命長寿の御神水です。
参道には沢山の石地蔵がありました。数少ない自然石の地蔵との事でした。
大山寺と大神山神社奥宮を結ぶ参道は自然石が敷き詰められています。
約500m程続きます。日本一の長さとありました。
約20分程敷石の参道を下ると大山寺です。
大山中腹にある天台宗別格本山の寺で、本尊は地蔵菩薩です。
約15分で、
お土産屋さんが続く商店街を過ぎると
出発した南光河原駐車場です。
気付くと何時の間にか晴れ上がり
大山が望遠出来ました。
約70kmで白兎神社です。
境内の参道に沢山の兎の石灯篭が並んでいました。
白兎大神を祀る神社です。
老若男女誰でもが知っている神話です。
大きな袋を肩にかけ、
大国さまが来かかると、
そ〜こにいなばの白うさぎ、
かわをはがれて赤裸・・・
この池で皮をむかれた赤裸の白兎が
身体を洗ったといわれています。
白兎神社の前が
道の駅、神話の里白うさぎです。
道の駅の大きな石像です。
白兎海岸(気多の岬)と淤岐ノ島です。
因幡の白兎伝説
古事記の因幡の白兎の神話は、
淤岐ノ島にいたウサギは気多の岬に
渡ろうと、海にいるワニを騙し、
『私とお前とどちらの一族が多いかを
数えてみたい。同族を全部連れてきて、
一列に並び伏し、その上を跳んで
数えて渡ろう』というウサギの話に
ワニたちは気多の前まで一列に
並びました。
その上を踏んで渡ったウサギは下りる前に
『お前たちは私にだまされたのだよ』
と言ってしまったため、最後のワニに捕まえられ、毛皮をはがされてしまいました。
ウサギが泣き悲しんでいると、先に来た神々が、『海水を浴びて風に当たって寝ていろ』と言うので、
そのとおりしたところ、ウサギの体は傷だらけになってしまいました。それを聞いたオオクニヌシは
『今すぐあの川口に行って、真水で体を洗って、その川口に生えている蒲黄(がま)の花粉を敷き、
その上に寝転べば、お前の体はきっと治るだろう』と指示し、そのとおりにしたウサギの体は
元通りになりました。気多の岬は鳥取市の白兎海岸です。白兎海岸の沖には淤岐ノ島も  
あります。淤岐ノ島には鳥居があり、兎の形に見えます。
約15kmで、鳥取砂丘です。
風紋が奇麗に残っていました。
砂丘の日没です。
今夜は近くの柳茶屋キャンプ場です。サイトは松林のフリーサイトで無料です。
炊事場・トイレ等掃除が行とどいていて素晴らしいキャンプ場でした。
テントを張るのが面倒なので今夜も車中泊です。夕食はレトルトのカレーです。
砂丘の日の出です。
朝夕の砂丘の色が全く違うのです。
素晴らしい景観に見とれました。
約40kmで、余部鉄橋です。
過って悲惨な事故がありました。
突風にあおられて客車7両が約41m下に
転落し、水産加工場と民家を直撃、
多数の犠牲者がでました。
頑丈なコンクリート橋が間も無く完成です。
工事中の餘部橋梁と撤去中の餘部鉄橋です。
日本海の海岸線です。山陰海岸国立公園に指定されています。
約35kmで、城崎温泉です。志賀直哉の代表作『城の崎にて』はこの温泉で誕生しました。
名実共に城崎温泉の象徴です。江戸時代、村民達に里人の外湯として親しまれていたそうです。
六角形の広い窓は玄武洞をイメージして造られたとありました。
約5kmで、玄武洞公園です。
火山活動でマグマが流れ出して固まる時に、
規則正しい割れ目をつくりだしたものです。
約54kmで、成相山展望台です。
天の橋立の股覗きです。
股覗きが最高と言われています。
少し下った所にある、成相山成相寺です。西国三十三ヵ所観音霊場第二十八番札所です。
成相寺の庭に咲いていました。
宮津市の今文水産で海鮮丼で昼食、これはお値打ちでした。
宮津天橋立IC、京丹波わちIC、丹波IC、沓掛ICを経て約130kmで無事帰宅しました。

08. あとがき
全走行距離4172km、無事帰宅しました。大山登山だけが最後まで雲の中で視界無く期待外れでしたが
他は好天に恵まれ素晴らしい旅になりました。阿蘇山では有毒ガスが発生して直ぐに下山させられてしまい
ましたが、写真撮影が出来たのが幸いでした。フェリーで桜島の傍を通過した時に大噴火して驚きましたが、
これもいい記念になりました。2011年『日本の旅』は愈々最後の沖縄編です。
日本最南端の波照間島と最西端の予那国島が目標ですがシュノーケリングで珊瑚・熱帯魚と戯れたいと
考えております。次回最終回を御期待下さい。
長期間の御高覧有難う御座いました。又お会い出来れば嬉しいです。ではでは・・・

旅のページに戻る