01. まえがき出発
定年後計画した旅の計画も大詰めです。
2001年 西国33箇所観音霊場巡礼の旅   2002年 東海道53次の旅、
2003年 奥の細道を辿る旅  2004年 四国88ヶ所遍路の旅
2005年 中山道69次の旅 2006年 北海道の旅
2007年 東北の旅 2008年 関東の旅
2009年 信越・北陸・中部の旅
今年、2010年は山陽道・九州・山陰道の旅です。7月12日、22:00出発、7月31日、帰宅しました。
旅行記は9月1日から隔日でUPする予定です。UPが長期間に亘る為に、
季節がずれてしまうのは避けられません。御容赦下さい。
旅の各地で筆者が登場します。 どうか笑って見過ごして遣って下さい。
さあ、 御一緒に山陽道・九州・山陰道の旅に出掛けましょう。!

02. 山陽道
自宅を出発して151km約2時間で到着、
ここで仮眠する事にしました。
早朝20km、約30分で赤穂城跡到着、
本丸門です。復元は、古写真をもとに、
古絵図をはじめとする文献類、
発掘調査の成果を検討して
昔どおりの伝統工法によって、
往時の姿によみがえらせたそうです。
隣接する大石神社です。
参道の両側には四十七士の銅像が
ありました。
大石内蔵助の討ち入り時の銅像です。
62km、1時間で岡山駅です。
駅前のいぬ・さる・きじを連れた
桃太郎の銅像です。
約2km、で岡山行楽園です。
日本三名園の一つです。
備前藩主池田綱政が14年の歳月を費やし
元禄13年(1700年)に完成したとありました。
園内から隣接する岡山城が見えます。
後楽園はお城の目の前にあり、
藩主の別荘で、賓客接待の場としても
使用されていたそうです。
園内では蓮が開花していました。
月見橋を渡ると岡山城(別名・烏城)です。
宇喜多秀家の居城でしたが
関ケ原合戦で西軍に属した秀家は改易、
新しく小早川秀秋が五十二万石で
入城した歴史があります。
約21kmで倉敷を代表する風景、
倉敷川です。
川沿いの大原美術館と大原邸です。大原美術館内は写真撮影禁止です。
実業家大原孫三郎が私財を投じて建設した大原美術館は我が国最大の個人コレクションを
展示しています。又大原邸は大原孫三郎の生家で重要文化財に指定されています。
約73kmで坂の町尾道です。標高136.9mの千光寺山中腹の千光寺公園には、
市立美術館や文学のこみち、遊園地等があり、頂上から市内が一望できます。
又春の桜は日本100選に選ばれる程有名です。
約87kmで原爆ドームです。
原爆被災を象徴する建物で、
世界文化遺産に登録されています。
元安川の対岸が平和記念公園です。多くのモニュメントがあります。
原爆の子の像と平和の鐘です。
原爆死没者慰霊碑です。
中に原爆ドームが見えます。
平和記念資料館です。
建造物・公園全体を丹下健三が
設計しています。
平和公園には多くの銅像があります。
祈りの像です。
約21kmで宮島口へ、船で10分程で
厳島(宮島)です。安芸の宮島とも呼ばれ、
日本三景の一つです。
現在の厳島神社は平清盛が造営した
と言われています。
宮島口から約25kmで錦帯橋です。
川幅200mに架かっている5連の
木造橋で、日本三名橋 の一つです。
約70km走行して、
国指定名勝の毛利氏庭園です。
隣接して毛利博物館があり、
毛利元就ゆかりの国宝や重要文化財の
宝物を所蔵、展示しています。
この後集中豪雨となり、山陽自動車道・
中国自動車道が通行止めになり、
全ての車が国道2号線に集中、
渋滞の連続で殆ど進行不能になりました。
兎に角、もの凄い集中豪雨で時々バケツの水をかぶった様になり車が走行出来なくなります。
やっとの思いで、約50km走行して秋吉台に到着、この間10時間以上の走行でした。
何時もの秋芳洞入口は水没して
通行止めです。黒谷口からエレベーターで
ほんの一部だけ入場出来ました。
勿論入場料は半額でした。
秋芳洞に入って直ぐに黄金柱です。
この先は通行止めになっていました。
何時もの清流が激しい濁流となっていました。
身の危険を感じ、早々に退却しました。
約11km、30分程で
名水100選の別府弁天池です。
豪雨で少々濁っている様子でした。
約5kmで道の駅、おふくです。
生憎、道の駅は閉館されていました。
近くのコンビニで夕食のおにぎりと
焼きそばを調達、今夜はここで
車中泊です。流石にこの雨の中の
車中泊は小生のみでした。
道の駅、おふくを早朝に出発、
引き続き高速道路は通行止め、
国道2号線で50km走行して
火の山公園到着です。
標高268mの火の山山頂から
微かに関門橋が望遠できました。
火の山を下りた場所が関門海峡で、
壇ノ浦の古戦場跡です。
狭い海峡を大型船が頻繁に
往来していました。
壇ノ浦PAから見た関門橋です。
源平最後の合戦となった舞台です。
屋島の戦いで敗れ下関に退いた
平氏軍を源氏軍が追撃、
総帥平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、
総大将源義経は激戦の後に宗盛を
生けどり斬首、平氏は滅亡します。
源平の総大将、源義経と平知盛です。
二位の尼(平時子/平清盛の妻)は
八歳の安徳天皇を抱いて入水、
平家の滅亡、源氏の時代が到来します。
長州藩は関門海峡を通る外国船を
5回砲撃、幕末の1864年、
圧倒的な武器の差で英・仏・蘭・米の
四国連合艦隊に敗戦、
開国に傾いたとも言われています。
想像以上に大きな大砲でした。
約5kmで 一見、竜宮城のような社殿の赤間神社です。
壇ノ浦の戦いで、亡くなった安徳天皇を祀っています。
安徳天皇陵です。
参勤交代時、大名の宿となる本陣を
務めた旧家で、現在は駐車場です。
幕末の当主は、
シーボルトや坂本龍馬との親交が厚く
龍馬が暗殺された時、妻のおりょうは
ここに滞在していたとありました。
関門トンネル(3461.4m)には車道下に
人や自転車が通れる人道も備えています。
ウォーキングしている人が数人いました。

次の9月29日(水)は北九州に入ります。 【シーサイド百道】 015 です。

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