自宅周辺の風景 |
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7月頃には蛍が飛び交い、秋から冬の月夜は其れは其れは見事なものです。 |
二階自室東側には湖南アルプスが、南側には岩間山が望めます。 |
湖南アルプスを越えると焼き物の町信楽へ通じ、岩間山の頂上には岩間寺があり |
此処での芭蕉の俳句 『古池や蛙飛び込む水の音』 は有名である。 |
自宅前の坂道を下ると瀬田川に着き当たる。 | ![]() 瀬田川の清流 (ここが一番近いバス釣りのポイントである) |
この川は滋賀県で瀬田川、京都で宇治川となり、 | |
大阪では淀川となってやがて大阪湾に注がれて、 | |
堺に通じている。 | |
信長がこの水利を利用して琵琶湖のほぼ中央に | |
安土城を築いたことは頷ける。 | |
![]() 南郷洗堰 |
川沿いの道を右折して暫らく行くと南郷洗堰に出る。 |
この水門で琵琶湖の水位の調節をしている。 | |
≪ ここでクイズを1問 ≫ | |
湖と沼の違いを知っていますか? | |
メールをお待ちしております。 | |
正解者先着1名様に小生の焼き物を進呈します。 | |
(千葉県我孫子市の後藤弘さんが正解者でした。) | |
![]() 瀬田川の渓谷 |
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更に進むと川はやがて渓谷となり、 | |
宇治川となって宇治の平等院へと通じる。 | |
![]() 石山寺の山門 |
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逆に左折するとやがて石山寺に出る。この寺で | |
紫式部が源氏物語を書いた事は有名である。 | |
特に 桜の季節は実に見事である。 | |
![]() 瀬田の唐橋 |
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更に進むと瀬田の唐橋に出る。 | |
琵琶湖越しに比叡山が望遠できる。 | |
ここも近江八景の一つである。 | |
この場所は琵琶湖の首根っこであり、 | |
信長時代には唐橋を征する者は諸国を制すると | |
重要拠点であったと言われている。 | |
![]() 琵琶湖 |
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もう直ぐそこから琵琶湖である。 | |
兎に角広い。滋賀県の1/6の面積を占め、 | |
湖岸道路を車で一周すると約4時間掛かる。 | |
暖かくなると、時々湖周辺で | |
アウトドアー生活を楽しんでいます。 | |
![]() 琵琶湖を周航する外輪船 ミシガン |
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更に進むと左側に義仲寺がある。芭蕉の遺言で | |
この寺には木曽義仲と芭蕉の墓が隣合わせにある。 | |
その先は官庁街となり、右側は琵琶湖の中心 | |
浜大津港である。ここから唐橋を通って石山寺や | |
南郷洗堰まで船で行く事も出来る。 | |
![]() 国宝 三井寺の金堂 |
湖西道路に入り進むと、やがて左前方に |
比叡山が見え、その麓に三井寺がある。 | |
≪三井晩鐘≫は近江八景の | |
一つであり、大変音色の綺麗な釣鐘で | |
日本三銘鐘の一つと言われている。 | |
延暦寺には近江神宮を左折して | |
奥比叡ドライブウエイで約20分、 | |
![]() 比叡山延暦寺 国宝 根本中堂 |
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途中の展望は琵琶湖岸の大津市内や京都市内が | |
望遠出来る。ここからの夜景は実に素晴らしですよ! | |
比叡山全山に諸堂があり、これが延暦寺である。 | |
伝教大師、最澄の教えにより、後に鎌倉仏教の祖師 | |
法然、親鸞、日蓮、栄西、道元上人が修行された。 | |
![]() 比叡山延暦寺 法華総持院 |
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僧侶は衣の下に鎧を着け強力な僧兵となり、 | |
時の政治に影響を及ぼす様になり、 | |
信長により焼き討ちされた。昭和の時代になり、 | |
再建されたのが潅頂堂・東堂・阿弥陀堂からなる | |
法華総持院である。 | |
![]() 旧竹林院の庭園 |
近江神宮前の道路を暫らく直進すると |
やがて坂本に入る。比叡山焼き討ち後、 | |
信長によりお目付け役として派遣されたのが | |
明智光秀である。ここは延暦寺の門前町として栄え、 | |
旧竹林院は最も格式の高い里坊でり、 | |
庭園内には入母屋造りカヤ葺の茶室があり、 | |
後に秀吉や家康が度々茶の湯を楽しんだとの事、 | |
![]() 西教寺への参道 |
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西教寺には光秀を始め一族の墓があり、光秀は | |
この参道を非常に好んでいたと言われている。 | |
![]() 浮御堂 |
坂本を通り抜け直進すると、再び湖西道路に出る。 |
琵琶湖大橋の手前で右折すると湖岸に突き当たる。 | |
此処に浮御堂があるここは『堅田の落雁』と言われ、 | |
近江八景の一つである。芭蕉・一茶・広重・北斎等が | |
多くの詩歌、絵画を残している。芭蕉の句で | |
『鎖あけて月さし入れよ浮御堂』 は有名である。 | |
暫らく湖西道路を進むと右手に琵琶湖大橋となる。 |
湖北 | ![]() 琵琶湖大橋 |
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湖西 | ![]() 湖南 |
湖東 | |
琵琶湖には2本の橋が架かっている。 | |||
湖南に近江大橋、一番縊れた所に | |||
全長1.4kmの琵琶湖大橋、この2本の橋で | |||
湖東と湖西を繋いでいる。 | |||
![]() 奥琵琶湖の景観 |
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琵琶湖大橋を右に、湖西道路を湖岸に沿って北上、 | |||
約1時間で湖北に着く。この周辺が奥琵琶湖である。 | |||
湖北地方は風景だけで無く信長の妹、お市の方が嫁いだ | |||
小谷城址、信長と浅井長政が戦った姉川の合戦、 | |||
信長の跡目争いで秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の | |||
合戦等々の古戦場もあり、歴史に興味のある方は | |||
訪れる価値は充分にあると思われる。 | |||
奥琵琶湖に別れ、今度は湖東の湖岸を南下する。 | ![]() 長浜城 |
賤ヶ岳のトンネルを抜け一時湖岸から離れるが | |
再び湖岸道路に出る。やがて秀吉の城下町として | |
栄えた長浜に着く、秀吉が初めて築いた居城が | |
湖岸に聳えている。 | |
天守閣からは琵琶湖は勿論、かって栄えた | |
長浜の町が一望出来るビュースポットで有る。 | |
![]() 国宝 彦根城 |
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更に湖岸道路を南下すると井伊家35万石の城下町 | |
彦根市に入り、左前方に国宝の彦根城が見えて来る。 | |
江戸末期、日本を開国に導いた大老の井伊直弼は | |
13代藩主で大老として日米修好通商条約に調印、 | |
二年後江戸城桜田門で襲われ46歳の生涯を終えた。 | ![]() 玄宮園から彦根城を望む |
城の北東にある玄宮園は4代藩主直興の造営で | |
中国唐時代の玄宗皇帝の離宮をなぞらえていて | |
江戸時代初期の大名庭園を現代に伝える名園である。 | |
ここでは花々・蝉時雨・紅葉・雪景色と四季折々の | |
風情を大名気分で味わう事が出来る。 | |
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彦根嬢から浜街道を南下して、信長の安土を通り抜け |
25km走行して近江八幡に到着する。豊臣秀次は信長亡き後 | |
安土城下の民を近江八幡に移し、自由都市を目指して | |
楽市楽座を施行して商いの町としての基盤を築いた。 | |
秀頼が生まれ後継ぎ争いで若くして自害したが | |
大変な名君であったと言う。秀次の没後、 | |
この町から天秤棒を肩に北海道やベトナム・タイ迄 | ![]() |
進出し、発展途上の江戸にも出店したと言う。 | |
近江商人の商人道は”買い手よし、売り手よし、世間よし” | |
の三方よしの理念を商売の基本としている。 | |
明治以降も、この地から近江商人として | |
住友財閥を始め多くの財界人が出ている。 | |
近江八幡からは湖岸のさざなみ街道を45km走行して帰宅した。これでとうとう琵琶湖一周である。 | |
![]() 信楽 陶芸の森 |
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自宅から約30km,一山超えると1時間で信楽に至る。 | |
小生は粘土を仕入れに年4〜5回は通っている。 | |
![]() 信楽の狸 |
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古くから信楽は六古窯の一つで焼き物の産地で、 | |
特に狸の置物が有名である。 | |
これに甘えて優秀な作家が育っていないのが | |
少々気掛かりである。 | |
![]() 甲賀忍者屋敷(甲賀53家筆頭 望月出雲守宅) |
信楽から国道307号線で1号線に出て北上すると |
東海道第49宿の土山宿に至る。 | |
その周辺一帯が忍者の里甲賀である。古くから | |
甲賀衆53家は強固な武士団を形成し、戦国時代には | |
信長に弾圧されるが家康を助けた縁で代々将軍家に | |
甲賀組として仕える様になり、『忍び者』として重宝された。 | |
土山宿からは国道1号線で水口宿⇒石部宿⇒草津宿⇒大津宿を通り40km走行して帰宅した。 | |
車で京都へは30分、奈良は1時間の場所にあり、自然派の小生には最高である。 | |
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