一神教と多神教


「人間は本能が壊れた動物であり、自我も言語も本能の崩壊に対する対策として成立した」とする岸田秀が、三浦雅士氏との対談形式によって「一神教と多神教」と題し、その歴史的背景と心理学をベースに独自の見解を指し示している。

端的にいうと、一神教であるユダヤ教を拠とした人々は、もとはといえばエジプトの奴隷であった事に発し、その過酷な差別を受けていた集団が強い劣等感を持ちつつ、モーセの指揮の下、カナンへ逃れた。彼の地では戦争をし、侵略され分裂を繰り返したという過酷な運命を辿るのだが、かって奴隷であったという劣等感や屈辱の捻れが一神教の出発点にあったと言う。劣等感や恨みを持つ者は、強い拠がなければ自我とのギャップを埋められないと。
ローマ帝国の中の下層階級、被差別層としてユダヤ人ができ、独立国家としてのユダヤの国が滅びた時にイエスが出現した。その後パウロを経て下層階級に拡がっていったことにより、キリスト教は被差別集団のメンタリティーと親和性を持ったいう。これはマルクス主義にも繋がっていく。

宗教と科学にも触れている。キリスト教は、聖俗分離を早くからやってのけたために、科学の発展を遂げることができた。(日本でも和魂洋才という分離ができたことによって、アジアではいち早く科学の発展をみた。)
ただし、キリスト教の聖俗分離は内面と外面を使い分けること、つまり一種の欺瞞であると言う。
近代ヨーロッパ人は、全知全能の唯一絶対神が支配している宇宙の法則を奪い取り、神に代わって人間が全知全能になり、宇宙の法則を我がものにして宇宙を支配したかったのだ。絶対者としての神は神としておき、内面はこれだ。ヨーロッパの近代科学はこのようにして成立したと言う。
同じ一神教であっても、科学の面において遅れをとったイスラム教のことにも触れているが、ここでは割愛する。

多神教である仏教やヒンドゥー教は、崇める祖先と民衆の間に血族関係が成立していたことによって、エディプスコンプレックスをもつキリスト教とを大きく隔て、そこに歴然たる違いが見て取れる。
世が乱れ非常事態になると一神教的な強いものが出てくる。日本に於いてもそれらしき(日蓮など)ことがなくはなかったが、おうおうにして一般に寛容で他の宗教を攻撃したりしてこなかった。
日本が侵略されそうになったのは、蒙古襲来くらいだ。その視点から見ると、想像を絶する過酷な歴史を繰り返してきたヨーロッパは、その起源もさることながら、劣等感と恨みと復讐心を根底に自我とのズレを埋めるために厳しく強力なユダヤ教、キリスト教のもと、大きく発展成長してきたということだ。
ブッシュがイスラムにたいして「悪の枢軸」というのは、近親憎悪の一種であり、自分の側の正義を示すために悪魔を必要とした。そして、キリスト教徒でなければ人間じゃない、だから殺してもいいとなるのだろうと結論づける。

豊かでのんびり暮らしていたあちらこちらの原住民族を、根こそぎやっつけて侵略していったヨーロッパの歴史を、岸田秀はこっぴどく追撃している。豊かな自然に育まれ、暢気にタロ芋生活をしていた人々と比すると、その時代に一番惨めな生き方を余儀なくされていたのが白人の集団だったらしい。
心理学的にいうと、虐げられ差別された集団は、それが強ければ強いほど残酷な加害者となり、恐ろしい力で復讐する。長い歴史を縦に見て、今の戦争に明け暮れる世界情勢を検証すると、これはあながち誇張ばかりとは思えない。いえ、ある部分はそうなのだろう。

フロイトを信望する岸田秀の書いたものを読んで、気持ちが楽になったという読者人が多いとのことだが、これに於いてはかなり過激だ。根本には、一神教は嫌いで多神教が本来のものであるという、彼自身の強い思いがあるからだろう。


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