私的資料補説

「湖北真宗の至宝と文化展」
20.真宗展、あとわずか!
親鸞聖人七百五十回忌にあわせて開催中の企画展「湖北真宗の至宝と文化」展が、まもなく終了します。お早く、お越しください。

寺院関係の方も多く来館され、様々なお話を聞かせていただくことが出来ました。

淺井会場での展示の中心は、なんと言っても、幅広の掛け軸の「光明本尊」です。この「光明本尊」は、仏光寺派が伝えるもので初期真宗特有の信仰形態を表し、全国に68点残されている中、湖北には17点も存在するそうです。

「光明本尊」と、呼ばれるだけあって、周囲から中央に向かって光の筋が走っているのが印象的です。他派では、中央から光が放出されている感じですが、ここでは全く逆です。

中央に「南無不可思議光如来」、右端に「帰妙尽十方無碍光如来」、左端に「南無阿弥陀仏」と記されています。私どもの大谷派や本願寺派の仏壇などを見ると、中央に六字名号「南無阿弥陀仏」(後、阿弥陀如来絵像に)が掛けられ、左右に九字名号、十字名号を掛けることと大きな違いがあります。

この軸には、仏教のひろまり、流れが一目で分かるように図示されています。仏の世界から、仏教の起こり、我が国への伝来、真宗の開山、宗派の起こり、自坊の開祖、その後の法脈が描かれています。信者は、この掛け図を拝むことによって、自らの信仰を確かめる手だてが得られるように思われます。

これが、仏光寺派初期の本尊だったそうで、今は、阿弥陀如来木像や絵像が中央に安置されているようです。また、門徒の法要などに各家の床の間に掲げられるそうです。

他の宗派には、このような形式は無かったのですかと尋ねましたら、後にこれが批判されることになるのです・・・というようなご説明をいただきました。

この「光明本尊」は、稲作を害虫から守る「むし送り」行事にも使われ、田んぼに持ち出されたと聞きました。現に、東草野では、神様と仏様の絵を先頭に2列の隊列を組んで、「むし送り」行事が行われていたとの証言もあります。
農薬のない時代、必死に神仏に祈り、信仰と一体になった農業の様子が浮かび上がってきます。

京都市美術館で開催中の「親鸞展」においても、「光明本尊」が展示品の中で大きな位置を占めているように感じました。
21.宝の出る谷出ない谷
小谷城の東麓にお市も入ったという美人湯で知られる温泉のある須賀谷集落があります。

ここの住民は昔から、山菜採り、松茸刈り、薪取りに出かけると、ある一つの谷だけから、何かしら昔の物を見つけることが出来たといいます。いくつかの谷がありますが、発見されるのは、この谷だったのです。

今、郷土学習館に展示されている鎧や兜に付けたと思われる「念持仏」や現代の火鉢である「銅製火舎」も、おそらくこの谷から見つかったものと思われます。

ある谷だけから見つかる、その理由は、なんでしょうか。

小谷城落城の後、ご承知のとおりこの城は羽柴秀吉に与えられます。秀吉が、浅井の旧領12万2千3百石を引継ぎ、はじめて城持ちになったことでも有名ですが、この辺に解答がありそうです。

永正十三年(1516)に築城されたとの記録もあり、落城までおよそ六十年間、浅井家3代のたまりにたまった不要な品々を、秀吉は入城に際し大掃除をして、この一つの谷にまとめて投げ捨てたと考えることが出来ます。

無闇やたらとあちこちに投棄するのではなく、一箇所にまとめて棄てるというところに、しいていえば秀吉軍の統一のとれた整備作業のあとを見て取れるというのは余りにも深読みしすぎでしょうか・・・。

3年後の天正四年(1576)には、早くも今浜改め長浜城へ移りますので、その際のゴミも同じ谷へ捨てたのかもしれません。

22.合戦後79年目の証言
この古地図は、慶安元年に描かれています。左上に、「合戦後79年になる」と書かれています。

小谷山の南東から姉川にかけての集落名と、それぞれの場所で展開された戦いの様子が記録されています。おそらく、どこかの大名か?関心のある人が、聞き取り調査をしたものだろうと思われます。

ここで、織田軍と淺井軍が戦ったとか、三河軍と朝倉軍が戦ったとか、敗走したとか、かなり詳しく書かれています。

ただ、惜しいことに死者の数は、どの戦場も「大勢討死」と、徳川権現様史観にも配慮したかのような記述になっています。正確な人数が書かれていると、面白い史料になったのですが・・・。

79年後といえば、自分の目で見た人は一人もいないわけで、両親や祖父母から聞いた話を思い出して答えているはずです。でも、この頃であれば、まだ語り手も聞き手も、生々しい戦いの様子が彷彿とできるような実感のこもる話が交わされていたように思います。

「当時、川幅は、龍ケ鼻岸から野村高堤まで2町あまり・・・。」と、河川改修、新田開発など農地の拡大をほのめかすような記載もあります。

何よりも、特筆すべきは、「合戦ノ時、郷人ドモハシゴ山ヘノボリテ見物仕ル・・・・・」云々とあることです。梯子山、今の岩崎山でしょうか、村人は山に登って見物していたというのです。見物というのは、現代の物見遊山的な見物では、絶対になかったはずです。

村々は信長の手勢によって焼き払われていて、しかも、男たちは淺井軍の一翼を担って戦っていたはずだからです。

こういった史料も、もう少し時代が下ると、江戸庶民の観光ブームに乗っかって、旅行案内や観光地紹介の一種と見なされるのかもしれませんが、まだこの時代ではそうではなかったと考えたいのです。

この史料の出所を太田参事に尋ねましたら、あっさりと「古物屋からですよ・・・。」とのご返事でした。