私的資料補説

小谷城での江の誕生
12.お市はいつやって来た?
戦国随一の美女、信長の妹「お市」は、いつ浅井長政のところへ嫁いで来たのでしょうか。

これが、いろいろ議論の分かれるところで、研究者によって永禄2年説、4年説、6年説、7年説、11年説など、さまざまです。

大河ドラマ「江」は、静岡大の小和田教授の永禄11年説で展開、2人の間に男の子はいない設定になっています。
もし、そうだとすればお市は22歳で嫁いで来たことになり、当時の「二十歳は大年増」という風潮からすると、あまりにも晩婚過ぎると思います。

信長の妹という血統のよさと、戦国随一の美女が、どうしてそんなに行きそびれたのか理解に苦しむところです。むかし、お市は信長の妹ではなかった?などという説を歴史読本に書かれていた小和田先生のことですから、お市は×1だった、×2だったとおっしゃるかもしれませんが・・・・・。

当資料館の旧展示資料では、やはり永禄11年説をとっていましたが、長浜城の太田参事の提言でしょうか今回の展示では、永禄4年頃と、比較的早い段階での結婚説に改められました。

六角氏から賢の字をもらい浅井賢政と名乗っていましたが、永禄4年に浅井長政と改めます。これは織田信長との関係が成立し、信長の長の字をもらったと考えることが出来ます。

信長は上洛をめざし尾張側から斉藤氏を攻め、浅井氏も近江側から斉藤氏を牽制しており、両者の利害は一致、手を結び、お市の婚約が成立したと考えられます。その後、永禄6年頃結婚、永禄7年に万福丸が誕生するというストーリーが最も自然な感じがします。

こうした立場で郷土学習館2階のジオラマ「小谷城での江の誕生」(写真)は、長政とお市、大河ドラマに登場しない万福丸と茶々、初、江の6人家族が、水入らずで、ひと時の平穏を楽しんでいる様子を再現しています。江が誕生した頃、もう小谷城は織田軍によって包囲されていたわけですが・・・・・。

プロデューサーの屋敷さんが講演で、「万福丸は側室の子だったんですね。」と、あっさりと切り捨てられましたが、いささか気になる発言でした。

万福丸を逃したお市に信長が、万福丸の行方を尋ねます。知らないと言い張りますが、あまりにも信長が真剣に「万福丸は俺の大事な甥だ。大和の大名に・・・。」と、説得したので隠れ家を教えます。その後、発見された万福丸が関が原で磔の上串刺しにされたと伝わっています。この話は、お市が万福丸の隠れ家を知っていたのは、お市の実子だった証拠だという人もいます。



大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」撮影余話・小豆袋・炎上
13.大河ドラマ「江」を3倍楽しむ講座1  
長浜城歴史博物館の太田浩司参事を講師に、毎月1回長浜城友の会会員限定講座として開催されています。

「江〜姫たちの戦国〜」のタイトルに、時代考証の小和田先生の向こうを張って資料提供太田浩司と出ている方だけあって、毎回興味あるウラ話などを聴くことができます。

先日、当館(淺井歴史民俗資料館)へ大垣市からお越しの方に、これからどちらへ・・・と尋ねましたら、この講座を聴きに行くと話され、人気のほどを思い知らされた次第です。

まずは、第1回講座の興味のあった部分を、ほんの少しだけ紹介します。
この講座の魅力、すべてのお話しを根拠づける史料を豊富に用意され、それをわかりやすく読み解きながら話される点にあります。

冒頭の安土城の場面は彦根城で撮影したこと、小谷城から市にびわのうみを紹介する場面では、CG処理で写り込んでいる現代風景を消していること、竹生島から小谷城を見ている設定の撮影日はかすんでいて見えなかったが、テレビではしっかり写っていたこと、竹生島
ではなく近江八幡の伊崎不動で撮影し、弁天さんは西明寺の本堂裏の弁天さんを使ったことなどの撮影裏話もサービスしていただきました。

お市の結婚後、信長が長政に会いに来るシーン。流れは小谷城のように見えましたが、実は佐和山城、そこまでは記録がありますが、お市が会いに行くというのは「淺井三代記」にあるだけでいささか疑問だそうです。そこへ、将軍義昭も立ち会うという設定はあり得ないのですが、脚本家のたっての希望で実現させたといいます。

両端を結んだ小豆袋を送った話は、「朝倉家記」だけの?話で、お市がそれを送らずにバサッとまき散らしてくれた田淵脚本には、太田さんも満足だったそうです。

8月29日に久政が小丸で自刃、9月1日小谷落城、長政が赤尾屋敷で切腹、その間3日もあったのかと思いきや、この8月は小の月で29日しかなく翌日のことだったとか.なるほどと感じ入った次第です。

焼け落ちなかった小谷落城なのに、派手に燃え上がっているのはやむを得ない演出上の問題、ドラマは緊張感を出さなければならないので・・・と、モゴモゴ。

三姉妹の伊勢移住の根拠、実宰院文書、禿鼠文書、信長は竹生島へ渡っている、など10題にわたって学ばせてもらいました。

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」静かだった本能寺・わからない
14.大河ドラマ「江」を3倍楽しむ講座2
人気のこの講座、さらに厳しく会員様限定しかも事前申し込み制をとっての開催となりました。会場の臨湖は、駐車場を探すのに必死で、違法駐車ぎりぎりといった有様でした。

今回は本能寺の変からお市の再嫁までを、前回同様たくさんの史料を用意しての2時間半の大講演会でした。

相変わらず、独断で私が面白く聴かせていただいた点を、ほんのわずかだけお裾分けしたいと思います。

宣教師ルイス・フロイスの書き留めた記録と従軍した光秀の家臣本城某の覚え書きに見る本能寺の変は、どうやらあっけないくらい静かな一方的な襲撃作戦のようです。

両文書からは、家臣は信長の命で家康を討つのかなあと・・・、と思いつつ進軍している様子がうかがえます。到着しても、守衛を殺したが、だれも兵士に抵抗する者はいなかったようです。「蚊帳ばかりつり候て、人なく候つる・・・、庫裏よりの方より下げ髪いたし・・・」なかなか、事件現場の状況を記憶に基づいて記録しているような妙な臨場感があります。

両文書が似ているように思えるのは、フロイスが家臣に聞いたり記録を見たりしたのかもしれませんが・・・、いかにも、という思いにさせてくれる文書群です。

今回の本能寺の変、少しあっさりした人数だなあと思ったのですが、それはまた話が別かもしれません。

明智光秀が、人を欺くために72の方法を深く体得していると人に吹聴し、あまり謀略に精通していない信長を惑わし・・・云々というフロイスの記録には、思わず吹き出してしまいました。

本能寺の変の原因を、光秀単独犯説が野望説など20説、黒幕存在説が秀吉や教如実行犯説など26説、その他4説の50説に後藤敦氏が整理されているそうです。

江が光秀に(この江、どこへでも出かけ、誰にでも話しかけます。)「あなたはなぜ信長を殺したんだ!」と、詰問するシーンがありました。こんなにたくさん原因があると、光秀本人も迷うことでしょう。ドラマでは、「わからない!」と答えましたが、まさに田淵久美子さんにも分からなかったんだと思います。

神君伊賀越えのルートは?、勝家はなぜひげ面か?、お市と江たち淺井三姉妹の北之庄へのルートは?などなど、6題+1の興味ある話に聞き入った幸せなひとときでした。