私的資料補説

小谷城復元模型
7.丸秘スクープ?小谷城域拡大!
小谷城の最奥部、山王丸、六坊を越え東北の月所丸を通過すると、やがて谷口町の西側山の尾根に出ます。

その頂部分に、千畳敷と古来呼ばれてきた広場のような場所があるそうです。そこは、「馬駆け場」とも呼ばれ、浅井家の馬術の訓練場であったと思われます。

今では落ち葉に埋もれていますが、加工された石の構造物もあったとかで、小谷城域の東へのせり出し部分と考えることが出来ます。

御馬屋があり、馬洗い池もあって、その訓練は桜馬場でと考えていましたが、猫の額のような桜馬場で本格的な馬術の訓練はできそうにありません。尾根伝いに谷口の広い尾根へ馬を連れて行き、訓練をする・・・、たしかにありそうな話だと思われませんか。

そこを少し過ぎた場所に、谷口区の鬼門を守る神社が祀られているそうですが、その近くに山水を溜めるかなり広い池のようなものがあり、今も水をたたえているといいます。

この水も、清水谷の水の手を補完するものとして、あるいはいざというときのための用水として、用意されていたと考えることは出来ないでしょうか。

話が、ここまで来ると、戦国屈指の山城として名を馳せている小谷城の規模が、さらに東北方向に大きく広がると考えることは出来ないでしょうか。

どなたか、この仮説を裏付けていただける方はおられませんか。

この拙文が私どもの城主城郭学の権威中井殿の目にとまることがあれば・・・、なんと稚拙なことかと一笑に付されるかもしれませんが・・・・・。



小谷城復元模型
8.小谷城の埋蔵金は何処に?
霞ヶ関の埋蔵金は期待はずれだったようですが、子どものころ、小谷山のどこかに浅井家の埋蔵金が眠っているという話を聞いたことがります。

小谷落城の戦後処理で羽柴秀吉がもらった湖北3郡の石高は12万2千3百石といわれています。それまでの浅井家もかなりの石高を有していたものと思われます。

城郭を構築し、城下町を形成し、幾たびかの戦いを繰り返し、50年にわたりこの地を支配するには、それなりの経済力が無ければ不可能と考えられます。

徳政令を出し、1升を8合枡で済ますという善政を敷いたといわれる浅井家で、そんなに潤沢に金が廻っていたとはいえないというのも一理ありますが、改易前の小室藩小堀家のような借金まみれの財政だったとは、到底考えれません。

この頃のこの程度の大名の勘定方は、いったい誰が担当していたのでしょうか。そして、どのように、どこで保管していたのでしょうか。疑問は、つのるばかりです。落城の際、誰が最終的に預かるものなのでしょうか。

城を明け渡した場合はなんとなく財産引継ぎのようなことが行われるようにも思われますが、城主が自決するとなれば話は別です。

場所を示す暗号、キーワードは、うろ覚えですが、「元日の朝?  金の鶏?  白南天?」です。

白南天が、白い南天の木ではなく、城南天で、城の南の空?だったとか、南の方の天守だとか(北の山王丸・小丸に対して)勝手なことを言い合っていたものです。

最近、その場所は谷口山の「馬駆け場」 だと聞いているという方がおられたり、ネットにこの小谷山埋蔵金伝承に極似のケースがずいぶん沢山あったりと、悩みは尽きない埋蔵金問題です。





姉川合戦絵巻物シアター
9.[往生野」その名のとおり!
資料館の辺りの小字名が「往生野」となっています。姉川合戦の戦場になった地域に「血川」「血原」という地名があることと繋げて考えると、「 福良の森」の一番奥深いこの地域で戦死者を荼毘に付したと考えることもできそうです。

事実、この浅井文化スポーツ公園の整備工事中、ブルが赤錆びの1m位の塊を2個見つけ、不気味で埋め戻したという話が伝わっています。その後、この資料館を建設する際、何か合戦に由来するものが発見できないかと探査したそうですが見つからなかったとも聞いています。

そうしたことと、つながりがあるのか無いのか、このあたりで行事がもたれると、雨が降ったり強風が吹いたりすることが多いとされてきました。

私たちの中学校も、この近くにありました。学校長が校内新聞に、「新中の蛇が、また雨を降らした。4ヶ村の開墾作業日毎に雨が降った。」と書かれていたことを記憶してます。思い出しました、その浅井中学校の第一期工事は台風で倒壊してしまったのです。(ただし、そこは往生野ではありません)

野球場がオープンした際も、バックボード中央の大時計が狂うこと狂うこと、京都のメーカーが3度くらい取り替えたといいます。また、町民挙げての総踊りのイベントで、原因不明の大停電が発生、真っ暗闇になってしまったこと、スケート場の竣工式に、2連式の大テントが強風であおられ、高く舞い上がったこと、そのスケートリンクでプロ選手に花束を贈呈する町長さんが転倒し脳震盪で気絶してしまわれたこと、子ども広場にあった赤白模様のきのこ状の遊具が台風の後行方不明で、探したら何百メートルも離れた考えられないような所で見つかったこと、数え上げればきりがありません。

これらは、みんな偶然の産物だったと思われますが、ただ事実は一つ、ある時、宗派は関係なく旧町内の43名のお坊さんに集まっていただいて盛大な慰霊の法要が営まれたと聞いています。その後、一切そのようなことは起こっていないそうですので、ご安心ください。

でも、こんなお話をした際には、充分お気をつけてお帰りください(いやみ?)と申し上げています。