私的資料補説

浅井三代を巡る人脈
4.浅井の血と愛子様
江の5人目の姫が後水尾天皇のもとに入内したことはよく知られています。でも、そこから浅井の血が宮中にかかわりを持っていったというほど、物事は簡単には進みません。

当然ながら、殿上人にとって武家はさぶらうもの、武家の血が宮中に流れこむことには、極端な拒否反応がありました。本来なら、断固として断りたかった入内でした。

そこで、後水尾天皇はなかなかのIDEAをひねり出します。次の天皇に女帝をたてるというものでした。女帝は859年前の奈良時代の称徳天皇まで遡りますが、女帝は国が乱れるので独身で通すという不文律があったのです。

そのことをたてに、即位した2人の間の子明正(めいしょう)天皇には独身どころか、人にも合わせず、どこへも旅させることもなく、軟禁状態で一生を過ごさせたという話が伝わっています。

徳川幕藩体制の確立期で、武家への統制策だけでなく、朝廷や公家に対する「禁中並びに公家諸法度」を定め圧力を強めている時代でもあり、後水尾天皇には武家から宮中を守るという強い意志があったものと思われます。

こうして江と秀忠との間の子からは、浅井の血がつながることは無かったのですが、意外な別ルートがあったのです。

江は、バツ2で秀忠の御台所となりますが、3.美女No.1お市と閨閥No.1お江の項でも触れたとおり2番目の夫小吉秀勝との間に完子という姫を残していました。その姫は淀殿が育てていましたが秀吉は九条関白家へ嫁がせます。夫も関白になり、子どもも関白になるという家柄で、その家筋は連綿とつながります。

そして、時代は明治期を迎え、九条家の姫が大正天皇となられる皇太子の后となられ、九条家に入った浅井の血は昭和天皇、今上天皇、皇太子、愛子様へと受け継がれていると考えることが出来ます。

「失礼をかえりみず申し上げるなら、絶世の美女お市の方と、愛子様はどことなく似ておられると考えるのは私の思い過ごしでしょうか。」と話しますと、たしかに・・・とうなずいていただく方が多いのですが・・・。


長政が寄進した太刀と刀
5.伝承が歴史になった瞬間
大路町の郷社湯次神社に伝来する太刀と刀は、浅井長政が戦勝祈願のために寄進したものとつたえられてきていました。しかし、このことにかかわる文書もなく、伝承はあくまでも伝承として伝わってきていたのです。

浅井町時代、神社仏閣に文化財を狙った空き巣が侵入する事件が頻繁に起こり、神社側が「研いてもらえれば資料館に寄託してもよい。」との申し出がありました。

そこで、教育委員会で予算を計上し、錆びていた太刀・刀を研いでもらったもらった結果、刀には「元亀三年」「備州長船祐定」との銘があったのです。

「元亀三年」は、まさに小谷落城の前年であり、「備州長船祐定」はいうまでもなく世に隠れ無き名工、最後の決戦を目前に控え、名刀を戦勝祈願のために作らせ奉納したものと考えられます。

一方の太刀は、鎌倉時代の名工「長光」の作であり、柄の目釘穴が4箇所もあるという浅井家に代々伝わる名品であると考えられます。

最後の決戦に際し、浅井家に伝来する名品の太刀と、新しく名工に打たせた備前長船の名刀とを寄進した長政の決意の程が、この太刀と刀の輝きから読み取れるように思います。

亡くなった叔父が、「文書は誰か一人が書き残したら歴史になるのに、伝承は何十人もの人が伝えたのに歴史にならんのはおかしい。」と、文書主義歴史に異を唱えていましたが、このケースは伝承が案外正しいことを伝えているという一つ例かもしれません。

補足 太刀=刃を下にして、腰に佩くもの(下げる) 古い時代に  刀=刃を上にして腰に差すもの


小谷城復元模型
6.サイフォンで水を確保?
周囲を敵兵に囲まれ落城寸前の城が、不足がちな水が潤沢にあるように見せるため、米や黄金を流すといった話は全国各地にあるようです。

小谷城でも、「白米で敵を欺くことまでしなければならなくなったことは・・・・・。」などと書かれてもいるようです。
事実か否かは別にして、幼い日、祖母からやはりこの白米を流し水に見立てたという話を聞いたことがあります。

小谷城の水に関して、もう一つ「サイフォン原理を使った用水」の話を、よく聞いてきました。
その水源は、「大吉寺」(旧浅井町上草野学区)であるとのことで、あまりにも離れすぎていて、荒唐無稽な作り話と笑い飛ばしていました。

しかし、最近この「大吉寺」は、小谷山中の地名であることが分かったという話が、ネットで紹介されていました。
ごく近い距離のようですが、高低差があり疑問もあるようです。大嶽を取巻く標高の高い部分の水を何らかの方法で導いたのかもしれません。

馬洗い池に季節によっては、かなりの水がたまっています。また、昔はもっと沢山水があったという人もいます。
また、小谷山の土質は水もちがよく、しっかり水分をたくわえ、じっくり染み出してくるという話を小谷のIさんから聞かせていただきました。

また、清水谷には幾つもの井戸跡があり、そこから水ノ手道が小谷城主要部の京極丸直下の虎口まで続いています。おそらく、この道を使って水を運び上げていたように思われます。

この道は、極めて急坂かつ空堀が何本も穿たれ通常敵が攻め上ることは予想されていなかったようですが、寝返った者たちから情報を得ていた羽柴秀吉が突入し、久政と長政との郭を分断したルートでもあります。

今、この道はかなり荒れていてよほどの専門家でないと登れないと聞いています。