私的資料補説

浅井三代を巡る人脈
50.浅井家を裏切った男たち1

寝返りで歴史に名を残したのは、関ヶ原決戦の小早川秀秋、山崎合戦における筒井順慶がチャンピオンでしょうか。

ともに、去就に迷い、悩み、決断し、秀秋は家康に大勝をもたらし、順慶は明智光秀を「三日天下」に終わらせ、自らは「洞ヶ峠を決めこむ」という慣用句の主人公になりました。

浅井家三代も、それぞれの時代ごとに多くの家臣からの裏切りを受けるという歴史を刻んで来ています。

以前も紹介した、現在展示中の史料は、亮政時代のものですが、「今回敵方へ寝返った者」として十二名の名があるなど、こうしたことが主家の盛衰に伴って日常茶飯に?行われていたのかも知れません。

浅井長政は朝倉攻めの信長軍を追撃し、敵対関係となった信長勢の侵入を阻むため、北国脇往還沿いに苅安(尾)城、中山道沿いに長比(たけくらべ)城を築きます。それぞれ中島直親、堀秀村に守らせます。折角築いた二城でしたが、姉川合戦を前にこの両者を信長は秀吉を使って寝返らせ、近江への侵入は容易になってしまいます。

  姉川合戦後、佐和山城に逃げ込み籠城していた浅井の猛将磯野員昌が、翌年2月になって兵糧も付き城を開き信長軍に下ることになります。長政は怒り、その人質を殺害します。

姉川合戦から3年後、包囲網を縮められた小谷城への最終攻撃を信長が決意するのは、これまた秀吉たちの調略による阿閉貞征の寝返りです。その報を聞いた信長は、直ちに岐阜から駆けつけ、決戦に挑むのです。

垣見文書にも、垣見氏が○○跡、○○跡、○○跡、○○跡などと、敵方に降った土地を与えられている書状があります。信玄死去、義昭追放、そんな情報が入り、形勢不利になるにつれ寝返りが多くなってくることは当然のことかも知れません。

反省、いつもダラダラ長すぎます。ここで、切ります。



浅井三代を巡る人脈
51.浅井家を裏切った男たち2

菅内閣、もう少し首が繋がりそうです。この先をどうする、水面下でドロドロした駆け引きが続けられていることでしょう。勝ち馬に乗る、大樹の元に走る、次の選挙での当選のみを目指す国会議員各位は、必死に情報を探りイライラしていることでしょう。

企業も同様、優秀企業になればなるほど、いつ何時、どこから買い占めなど、魔の手が伸びてくるか、戦々恐々といった日常ではないでしょうか。

下克上、戦国の世、云い方を変えれば裏切りの繰り返しかも知れません。最終戦で、秀吉(豊臣家)を裏切った家康は、その連鎖を断ち切るシステムを、「日本国民の幸せのために」創り出したといえます。

話は、浅井家へ戻ります。

落城間際になって、小谷城裏側大嶽の焼尾丸に織田勢をどうぞどうぞと導いた浅見対馬守の場合、「盾下の謀反」というそうですが領地没収、追放処分となりました。

また、落城寸前に寝返った、浅井井規、大野木茂俊、三田村左衛門たちは「鍔下の返り忠」ということで、卑怯だと惨殺されたといいます。

そんな卑怯千万な人間を許して、召し抱えたとしても、後の示しがつきません。

乱世では、裏切られる方も悪いという風潮もあったらしいのですが、太平の世になれば、家康さん、そんなことは言っていられません。「裏切りは悪」の大原則を、天下に徹底させなければなりません。

冒頭の小早川秀秋君はどうなったのでしょうか。徳川政権成立の最高殊勲者、どれだけ評価してもし過ぎではない、どこまで登り詰めても不思議ではない人物です・・・・・・。

岡山55万石に封ぜられますが、関ヶ原合戦から2年後、21歳の若さで死んでいます。暗殺という人もいれば、大谷吉継の恨み言で狂死したという人もいます。裏切りを悔い悩んだ末の病死?いずれにしても、家康にとってはラッキーな結末でした。



「浅井三代人物記」パネル
52.「浅井三代記」ベストセラーの秘密

昨日の「『浅井三代記』出版プロジェクト」は、既に書いた通り、今から半月前HPに載せたものです。HPからブログへの引っ越しを忘れていて昨日となりました。書き直したい思いを抑え、あえてそのままアップしました。(ブログのための書き方で失礼します。当HPでは6/1に。)

浅井家滅亡から115年、江戸時代初期に全15巻からなる木版印刷の「浅井三代記」が出版されることの意味が分からない、元禄繚乱、すごい時代だったいう意外にない・・・そんなことを書きました。

その後、2回にわたって「浅井家を裏切った男たち」を、書いているうちに、今頃遅いと諸賢には笑われそうですが、思い当たることがありました。

家臣団を守り、領民を守るという大義があるとは言え、裏切りと駆け引きで、戦国の世を駆け抜けた武将たちを庶民たちはどのように見ていたのかということです。

江戸幕藩体制下に組み込まれた諸大名の来し方を振り返れば、様々なものが見えてきたはずです。豊臣恩顧の武将たちの中にも、何のためらいもなく徳川権現様にひれ伏す者もいれば、呼び出しの命に従わず攻め滅ぼされた者もいます。

口さがない庶民は、我等がお殿様のことを気ままに噂し合ったことが想像され、庶民にとって贔屓の大名たちも出来したはずです。今でいう、「貴方の好きな武将No.1は?」と、いったランク付けがあったかも知れません。

そんな中、浅井長政の評価はどうだったのでしょうか。時の権力者、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長の妹お市を娶り、いかなる出世、栄達も見込まれた武将でありながら、朝倉氏からの恩義に応えることを第一義として(この際、信長包囲網は無視します。出版社も無視したはずです?)敢然と信長に戦いを挑んで行く生き方、庶民に評価されないワケがないと考えられます。

しかも、姉川合戦、志賀の陣から、最終的な小谷落城まで、約三年間、言い方を変えれば、お市もいて信長の甥や姪もいていつでも信長側への投降が考えられるような環境の中で、一貫して義を貫く馬鹿という字が着くほど真っ正直な生き方に、庶民の喝采の声が聞こえてくるような気がします。                                             

少し後になると、歌舞伎界で「仮名手本忠臣蔵」が一世を風靡しますが、もう一捻りあると、「浅井三代記」も歌舞伎十八番の一つにになっていたかもしれません。

はい、これが答えです。