私的資料補説
小谷城模型
1.嫁落しの崖と小谷城
我が国屈指の堅固さを誇る小谷城は、浅井亮政によって築かれ、以後元亀4年(年号が変わったのに天正元年と呼ばないのが浅井家応援団の心意気です。)(1573)の落城までおよそ50年浅井家三代の居城となった山城です。

天然の要害を巧みに活かし、1000箇所にも及ぶ構造物を配した、難攻不落の名城といわれています。

とりわけ、正面右手東側斜面(お市も入ったといわれる美人の湯須賀谷温泉側です。)は、切り立った垂直に近い崖が続いています。

その崖の途中に水晶の出る場所があるということで、地域のやんちゃ坊主が集まって金槌を持って出かけたことがありました。勿論、水晶は見つかりませんでしたが、キラキラした石英のかけらや崖に掘った穴があったことを覚えています。

子どものころ私の祖母が、その崖の辺りを指差して、「あそこを嫁落しといって、浅井さんの負けいくさのときに、女の人らが何人も飛び降りやあったらしい。」と話してくれたことを思い出します。

たしかに、男は切腹、お市さんと姫たちは脱出、さあ、そのほかのご婦人方の行方は一体?気にならなくも無い話です。



帷子(胴当)
2.血痕の付いた雑兵の帷子
明治末年まで個人の家に伝来しましたが、血痕が気になったからでしょうか、湯次神社に寄進されました。
首筋と右前下に、明らかに鉄さびとは異なる血痕が残されています。

姉川合戦に由来するものとの伝承がありますが、DNA鑑定でもしない限り、明確なことはわかりません。

有力武将たちの鎧とは違って、雑兵たちが着けていた身を守るための簡単な防護服?とでもいったところでしょうか。前と後ろに、何十枚という鋼鉄版が鋲でかしめてあります。重さは11キロと、なかなかの目方です。

背中の内側には、何か神仏に祈願したものでしょうか、解読は難しいのですが神代文字のような微妙な刺繍が施され、鏡のようなものが付いています。

浅井の家臣団、大半は農民たちと思われます。日頃は田畑を耕し、何かことがあれば命令に従ってこのような帷子を身にまとい、戦場や時には一揆に馳せ参じたことでしょう。

それぞれの家に保有し、代々引き継がれるようなこともあったと思われます。親父が息子に、「もう俺も老けた、今度の戦いからはお前がこの帷子を着けて出て行ってくれ!」などといった会話があったかもしれません。

いま、自治会の自警団員に配られているハッピを災害発生の際身につけ出動する姿に似ていなくもないように思います。


浅井三代を巡る人脈
3.美女No.1お市と閨閥No.1お江
お市は我が国歴史上最も美しい女性として知られます。桃の花が露を含んだ・・・という表現、まさに見事に言い表しているように思います。

高野山持明院の「お市画像」は、お市の7回忌長政の17回忌法要に際して、茶々が描かせたものを法要後奉納したものといわれます。お市没後、6、7年後まだ記憶も新しい中で描かれた像に偽りや誇張は無いと思います。

ところで、お市が美女チャンピオンNo.1であったとするなら、江は我が国歴史上最も華麗な人脈をもつ女性のチャンピオンといえます。

江たちの叔父さんが織田信長、一番上の姉ちゃんの旦那は豊臣秀吉、真ん中の姉ちゃんの旦那は室町時代の守護大名四職の家柄から続く名門大名、江自身の旦那は2代将軍になり、そのお父さんは徳川家康、息子も3代将軍家光(15人の将軍御台所中、息子が次期将軍になったのは、江ただ一人)になります。おまけに、5人もの姫を生み、それぞれ豊臣家、京極家、前田家、松平家へ送り込み、末娘は後水尾天皇の中宮として入内、娘が明正天皇として皇位を継ぎます。

江は、再々婚(バツ2)で秀忠の正室になったわけですが、再婚の相手秀吉の甥小吉秀勝との間に生まれた完子(サダコ)を秀吉は、関白九条家に嫁がせます。

これで、江は織田家・豊臣家・徳川家・禁裏・公家という、最強の人脈を持ったことになります。ご来館いただく方でこれ以上の人脈をお持ちの方がおられたら、ぜひ一度出会いたいものだと思っています。