私的資料補説

「江画像」
47.徳川御台所江、伏見城で出産

お菓子の食べ過ぎでしょうかと、いつも冷やかしますが、初には子どもが生まれなかったようです。

それに引き換え、茶々には男の子ばかり二人、には秀忠との間に男女織り交ぜて七人、前の夫小吉秀勝との間にも一人、計八人の子宝に恵まれます。

一説によりますと、江の最初の結婚相手、佐治一成との間にも二人の女の子がいたというお話もあるようです。一人は江恋しさに入水、一人は嵯峨で尼僧になったとまことしやかな話です。でも、12歳の16歳のご夫婦に、少し無理があるような気がします。それも入れるなら、江さんはしめて十人の子を生んだことになります。

ところが、江さんの生んだとされる子の中にも、家光を初め怪しい子がいて・・・・・、何が何やら分かりません。

そんなこんなで、子どもの無い初は、江に四番目の子がお腹の中に出来たとき、今度の子が女なら私に頂戴と約束したといいます。猫か犬の仔ならいざ知らず、徳川ご本家と一大名家との間で、そんな簡単に約束ができるもんでしょうかね。

でも、産屋からそのまま初の元へ引き取られ、その初姫と江が再びまみえるのは、何と二十歳を過ぎてからであったといいます。

長女千姫の秀頼への輿入れについては、七歳、早いようにも思いますが、三女珠姫は三歳で加賀前田家の利常に嫁いでいます。

初は、この機会に淀と出会い千姫のことをよろしくと頼むと同時に、近々における豊臣家と徳川家のわだかまりを何とか、ときほぐしたいと考えていたと思います。

秀忠にそのことを頼みますが、家康が首を縦に振らず、行きたいのなら伏見城まで同行しそこで待機せよといったといいます。姉妹という血のつながりより、徳川家と豊臣家という巨大勢力の政治的バランスの方が当然優先すべきというのが家康の考えであることは明白です。

江は夫秀忠を責めても無駄、舅家康が日本列島安定化計画推進中の徳川が背後にあることを痛感したと思います。

それでも、江は千姫の行列に加わって、江戸から伏見城まで同行しています。慶長八年(1603)のことです。四女の初姫を身ごもっている最中であり、淀と出会えないのなら諦めてもよいように思いますが・・・・・。保育園か幼稚園へ送るに似た年齢での輿入れに母親として、せめて少しでも長く寄り添っていてやりたいという気持ちだったのかも知れません。

身重の旅といいますが、なんと伏見城で江は出産ということになります。その子は、女で、初姫となります。

ただ、伏見城で産んだということは、この頃京極高次お初は小浜の後瀬山に城を構えており、わざわざ江戸まで迎えに行く手間が省けたということになります。これで、産屋から直接という話も信憑性が出てきます。また、もしかすると、伏見城で産むことになり女の子が産まれたので、江戸へ連れて帰るより、近くで子どもをほしがっていた初にあげたらとなったのかも知れません。無責任な話で申し訳ありません



大依山を望む 岩崎山を望む
48.大依山砦は古墳を利用したのか?

当淺井歴史民俗資料館の裏山大依山といい、浅井朝倉軍と織田徳川軍が戦った姉川合戦の前夜、浅井朝倉軍を敷いた処です。

これは、信長公記に「朝倉孫三郎八千ばかりにて、大谷(小谷)の東をより山(大依山)と申し候て東西へ長き山あり、彼の山に陣取るなり。」とある山です。

長浜城の湖北学講座第1回で、この大依山砦をテーマに持たれました。

前半は、「大依山陣の会」会長吉川富雄氏が、映像をもとに会の運営やこの地域に残る伝承などを具体的に説明されました。後半は、前長浜城館長中井均氏が「野瀬倉山古墳群と大依山砦」を演題に講演されました。

東西に連なる大依山から南北に岩崎山が突き出ていますが、浅井軍の布陣場所は信長公記には、書かれていません。しかし、現地に立てば、この岩崎山が浅井軍の陣地と考えられますと講師先生。「文書にはないことを押さえた上であれば、歴史です。」との話、妙に納得しました。姉川対岸に陣を敷いた織田徳川軍を見張り、戦術を考えるべき浅井軍の占める位置は、ここ以外にはないと思われます。

また、浅井軍が陣を敷いたこの岩崎山は尾根に、かなり大きな前方後円墳をはじめ数個の円墳が連なっており、その部分が幾分広い平地となっています。ここで、4日間陣を置いたとなると、その古墳の上で起居していたことになります。

しかし、ここは極めて緊急の応戦先端基地であり、事前に準備したわけではなく、古墳群を砦に造り直しているわけでもありません。たまたま、登ったら平地もあって好都合だったといったところでしょうか。

各地には、古墳を改造して砦に活用しているケースもあり、今後の研究課題として面白いテーマと捉えておられる雰囲気でした。

古代の古墳と戦国時代の砦、城は似てるという視点も面白く思いました。発掘しなくても、文書を探らなくても、見たら分かる点、村々が見える場所、村々から見える場所、目立つところに立地している点など・・・・・・・。



「淺井歴史民俗資料館案内看板案」
49.悲劇的涙の案内看板原案

小浜湾に突き出た半島にある「国立若狭湾少年自然の家」、この施設への案内板の数は、国道からはじまって20枚近くあります。

つい、国立の施設で予算も多いので・・・と、皮肉も言いたくなるくらいの数です。何度か、訪ねることがあったのですが、看板を見て笑えてくるくらいの林立ぶりです。

所長さんとの挨拶は、いつも看板の話から・・・、これでもか、これでもかというくらいの看板が、やはり歓迎の気持ちを表しているように思えてくるのです。

四国八十八カ所巡拝でも、手づくりの温かな心のこもった小さな看板に出会います。

国道沿いの三姉妹博覧会場には、大きな看板があり、ポスター・チラシが刷られ、広告宣伝活動がなされてきました。

連携会場の当淺井歴史民俗資料館は、そんなPRもなく、国道から引っ込んだ所にあり、せめて大きな看板を・・・・・、これは昨年からの最大の懸案事項でした。しかし、1月の博覧会オープン時期までに、当館用の看板は1枚も用意されませんでした。

「おもてなしの心」「おもてなしの心」と、あちこちから聞きましたが、来館される方への最大の「おもてなし」は、スムーズに当館にたどり着いていただくことが先ず第一です。

迷った」「分かりにくい」「HPがない」そんな不満をしょっちゅう聞きました。

そんな頃、手づくりのポスターを、博覧会場「江・ドラマ館」に貼らしてもらおう、と考え作ったものが、写真です。最近のプリンターは良くできているので、大きなポスターでも貼り合わせれば、印刷することが出来ます。(畳一畳分くらいへっちゃら)

手始めに、A3ノビに印刷、ラミネート加工をして、「江・ドラマ館」へ依頼してもらったら、何と「業者が作製した物に限る。手づくりの物は駄目。」という悲しいご託宣でした。従って、このポスター原案は、ボツとなり、悲しいかな陽の目を見ることはなかったのです。

その後、あちこちに掛け合って、ようやく看板が出来たのが、行楽シーズンのゴールデンウイークが終わってからでした。(迷い迷いたどり着いていただきました全国の皆さますみませんでした。)