私的資料補説

参考画像「秀頼画像in養源院」
43.「秀頼は誰の子?」

この時期、日本で宣教師として活躍していたルイスフロイスの「日本記」に、鶴松誕生時の微妙な出来事が記されているそうです。

この秀吉と淀殿との間に出来た鶴松のことについて、当時、世間の人の中で秀吉の子と信じている者は誰一人いなかったといいます。

おまけに、京都聚楽第の門の扉に、その子が秀吉の子ではないとする落首が書かれていて、管理不行き届きの罪で門番の17人が残忍な方法で処刑されたと伝わります。

その鶴松も、3歳であっけなく死に、後継者もなく秀次が関白に就任します。がっくりきていた秀吉は何を思ったか、翌年、朝鮮出兵を企画、文禄の役が始まります。

そして、翌文禄2年(1593)8月、淀殿は第2子秀頼を大阪城で産みます。淀24歳、秀吉56歳、しかも、抱えていた夥しい数の側室には、一人も子どもが産まれず、淀にだけ第2子まで誕生というのは余りにも出来すぎた話と古来様々な憶測がなされてきました。

なかでも、最も有力視されてきたのが、茶々の乳母サキ(大蔵卿局)の子、大野治長です。たしかに、大坂落城の際にも、最後の最後まで、淀殿&秀頼に付き添い、ともに炎の中に消えます。

講師先生も、公然の秘密であった、と公然と仰有いました。(仰有いってこう書くんですね!)

何より、秀吉はどう考えていたのでしょうか。世間の噂はどうであれ二人の間は堅く結ばれ二人の真の子であったのか、まったく身に覚えのない子だったのか?身に覚えが無くても、最愛の淀殿の子を我が子と思う深い愛に包まれた関係があったのか、微妙ではあっても豊臣氏の後継者が出来したことにすがる思いであったのか、それは分かりません。様々、思いをめぐらす幸せな時間を、秀吉さんは私たちにプレゼントしてくれているといえるかもしれません




「三姉妹ジオラマ江誕生」
44.「淀殿、気の毒!」
淀殿と大野治長の怪しい関係については、講師先生の気迫に押されて、堂々と書きましたが、まだまだ史料が続きます。

明良洪範  江戸中頃の随筆
        秀吉公ノ実子ニアラズ   大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト
        秀吉公死後ハ淀殿イヨイヨ荒淫ニナラレシ事

塩尻      尾張藩の某の随筆
        大野修理の子と  密通し棄君と秀頼とを生せし 大野は秀吉死後婬したり

玉露證話 淀殿密かに名護屋三郎を招き愛せらるるに付き、秀頼公は彼の山三郎の胤なりと云い伝ふ
   近臣の閨門出入りをさして咎玉ふ事なかりしとかや   

膽大小心録 かの有名な上田秋成まで・・・・・!
よどの君もかほよきのみならず、色好むさがのありて、後には大野修理・・
片桐市正、淀殿の艶色をふかくしのびて人無きところにて手をとらえたりしかば、打ち払い・・・

どれもこれも、開いた口がふさがらない、悪口雑言、いくら徳川権現様の時代になり徳川中心史観(私観???)で、仇敵を貶めるといっても、やり過ぎといわざるを得ません。
とりわけ、茶々ちゃんが、5つまで育ったお城近くに住する人間にとって、これ以上不愉快なことはありません。

いつか、この無念は晴らして見せますと、いいたいところですが・・・・・。

ゴシップ週刊誌のネタに使われる旬の過ぎたアイドルたちといったところでしょうか。
ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです。




山門和服姿美人

法要北山氏の姿も
四姉妹演奏会
45.「江、遠州&孤篷庵」
当淺井歴史民俗資料館から北へ4キロの所に、「近江孤篷庵」があります。ここは、京都孤篷庵と同じく京都大徳寺派に属する臨済宗の寺です。

小堀遠州並びに小堀家歴代の菩提寺として知られ、本堂の南面は広々とした枯山水庭園、東北面は池泉回遊式庭園で、春はつつじ、秋は紅白のはぎ、紅葉など四季折々の趣ある風情で多くの観光客を招じ入れています。

昨年は、参道を、京都高台寺、建仁寺、大徳寺庭園修復、愛知万博庭園石組み担当で有名な北山安夫氏の指揮により、地元保存会などのボランティアで、三和土道に改修したところです。(北山氏は、NHKプロフェッショナル仕事の流儀に出演)

今年度は、山門建設と山門周辺庭園整備が、やはり北山安夫氏の北山造園の監修で行われその竣工法要が昨6月9日執行されました。

この、小堀遠州は、知る人ぞ知る、知らない人も知る、千利休と並ぶ三大茶人、多芸多才特に造園、築城に優れ、大徳寺孤篷庵や桂離宮などを手がけました。

遠州の父親、小堀正次は浅井家の家臣でしたが、後秀吉に取り立てられ、秀長に仕え、秀吉没後は正次、政一(遠州)は家康に仕え・・・・・と、めまぐるしく転進し、関ヶ原の戦いの功により備中松山城を賜ります。父の死後、政一が継ぎ、1608年駿府城普請奉行の功により遠江守に叙され、遠州と名乗ることになります。1619年ここ小室藩にやってきます。

遠州は、茶人として徳川秀忠、家光2代にわたって茶道師範をつとめます。

ならば、秀忠夫人の「江」も、当然乍ら江戸城で小堀遠州から茶道の手ほどきを受けたのではないかと思われます。

時間的にも、「江」江戸城在住中に、遠州は何度か、江戸城に出仕しているそうです。姉さん女房の「江」が、秀忠のスケジュール管理をしていて、「遠州さんにお茶を習うの?あの人のお父さん私の父の家来だったのよ。私にも逢わせて!」なんてことになって、出会っていることも考えられそうです。年齢も七つ違いで、話も合いそうですし・・・・・。

竣工法要の後は、翠したたるお庭を舞台に三姉妹ならぬ女性4人のフルート演奏会が持たれ、江と遠州の出会いに夢をはせながら名演奏の数々に酔いしれた次第です。