私的資料補説
「当館第1回歴史講座太田参事」
40.「文書から読み解く三姉妹茶々1」
本資料館の今年度第1回の歴史講座が始まりました。例年ですと5回の予定ですが、今年度は何しろ大河ドラマ関連で、おびただしい数の来館者を迎えごった返している関係で、3回に限定して実施ということになりました。

講師は、3回とも長浜城歴史博物館参事太田浩司先生で、三姉妹を年間テーマとし、「茶々」「初」「江」がそれぞれの回のテーマとなります。

太田先生は、このHP&ブログでも再々良きにつけ悪しきにつけ?登場されますが、 ご承知の通り、大河ドラマ「江」のタイトルバックにも資料提供太田浩司と出てくる人です。「資料提供ってなんや?」とよく聞かれますが、とのことですが、本人に言わせるとタイトル画面の早々に出てくる時代考証の小和田哲男さんと、大差ない役割を負っておられるようです。時には編集会議に出られるようですが、大半は、原稿を見て歴史的にどうだこうだと文句を付ける仕事のようです。

その提言が通る場合もあれば、そうでない場合もあって・・・・・、また、小和田先輩を立てなければならないこともあるようです。

いつもながら、豊富な史料を用意され、興味深く、面白く、分かりやすくご講義いただき時間の経つのを忘れてしまいます。

このブログのネタ切れ防止のため、ご講義の無断拝借と参ります。本日は1件だけ。 大河「江」の今週は、茶々の恋がかなりの時間をとって、展開されました。 これに対し、「田淵久美子さんは、恋愛経験が豊富なのか、愛がすべてと思い込み過ぎ。」とか、「恋愛以外の結婚もあることを知ってもらいたい。」と、かなり手厳しいお話でした。たしかにお初も京極高次にゾッコンでしたし、お江も佐治一成にかなり参っていた感じでした。
ここに来て、茶々もとなると、浅井家のDNAは恋愛大好き人間となるのでしょうか。
今までにない、茶々が親の敵である秀吉を好きになる設定には、これくらいの時間を掛けないと話が自然に流れないのかも知れません。何回、あの東屋シーンが出てきたことでしょう。それに比べ、第1話の凝縮ぶりには、つい地元として不満も述べたくなります。

「三姉妹大年表」
「41.茶々(淀殿)が若かった」
この時代の歴史、解らないことばかり、とりわけ女性に関しては記録にあることの方が不思議なくらいでしょう。

茶々がいつ秀吉の側室になったか、全く解っていないとのことで、鶴松が生まれた年の前の年くらいじゃないかと、そんなところで手を打ってあるようです。

そんなこんなで、お市が小谷へやって来た年についても、沢山の説があることはご紹介したとおりです。今回、その論争にも影響を与えかねない話を聞きました。

現在まで、茶々(淀殿)は永禄10年(1567)生まれで、大阪城で49歳で亡くなったとされてきました。これは、江戸時代の神沢杜口の著した随筆「翁草」(186淀殿の略伝)を、根拠にしています。 史料を見ましたが、たしかに不安になるようないい加減な記述です。

淀殿、諱は於野々一本オチャ々 茶々が於野々になっていたり、 長女 諱於發 長女が初となっていたり、 二女 於野々 二女がお茶々となっていたり、 淀殿生害 時に49歳    49歳と書いた後に 或いは40歳、39歳ともあり、
              別本には45歳ともある、等と書かれています。 こんな史料で、年齢が決まっていたかと思うと、情けない気持ちもします。 ところが、最近、陰陽道に関わって祈祷記録が発見されたといいます。祈祷に関わる記録に偽りはないだろうということで、茶々の生年は永禄12年説が主流になったとの話でした。

そうなると、お市の輿入れは、太田説より小和田さんの永禄11年説に限りなく近づくように思いますが、それでいいのでしょうか、太田さん。

長政とお市の結婚生活は5年、しかも、朝倉攻めで信長との関係が悪化するまでとすると、穏やかな幸せな期間は2年しかない、そんな短い間に、どうしてあのように仲むつまじい二人の関係が紡ぎ出せたのでしょうか。

なおなお、謎と疑問は深まるばかりです
「熊本城本丸御殿昭君の間」
「42.長政お市の孫は熊本暮らし?]
九州のバスガイドさんは、すごい。昨年、菊池渓谷への旅で、戦国合戦の説明が一区切り付いた瞬間、思わず一斉に拍手が湧き起こったことがありました。

私たちボランティアも、かくありたいとは念じますが、夢のまた夢・・・・・・。

肥後もっこすでなくても、ガイドさんを初め九州人加藤清正を慕う気持ちには、ただならぬものがあるように思いました。

ああ、この人たちに清正さんは、私たちの町長浜で秀吉の小姓になり、近くの賤ヶ岳で七本槍として手柄を立てて・・・・・と、語りたい気持ちで一杯でした。

7、8年前の「本丸御殿が完成したら、もう一度お越しください。」の言葉につられ今回の登城となりました。

こんな、恐ろしい勿体ない大事業、元お殿様細川総理大臣のお城だから出来ること、と八つ噛み半分で受け止めていましたが、今回、総事業費54億円のうち国費は17億円と聞いて、まあまあ仕方ないかなと微妙な納得をした次第です。

熊本県産品を主としてすべて国産、技術も可能な限り当時に遡らせて・・・とあり、建築無類好き人間としては、いいんじゃないのという気持ちにもなりました。日本の幸せな時期に、こんな無駄遣いした時代もあったなあと、何百年後の観光客も、また見学することでしょう。

ところで、全53室もある中、もっとも格式の高い「昭君の間」には、圧倒されます。中国漢代の「王昭君」の物語が、部屋中に絢爛豪華に描かれています。また、見上げると、折上格天井に見事な花が咲き誇っています。

何よりも、この「昭君の間」は「将軍の間」を意味するネーミングで、いざという時機が到来すれば、加藤清正は秀頼をこの熊本城に迎え、秀吉恩顧の大名や西国武将を率いて徳川氏に背く決意であったと確かに聞いたことがあります。

今回も、お仲間がそのようにご説明いただき、通説に近づいているのかな・・・と思ったりしながら聞かせていただきました。

もし、そんなことになっていたら、浅井長政、お市の孫「秀頼」は、ここに座り、この城をバックに、また、新しい時代を築いていったのかも知れません。