私的資料補説
「大依山から姉川古戦場方向を望む」
37.「姉川合戦勃発寸前の大依山」
当淺井歴史民俗資料館の裏山は、大依山といいます。ここは、元亀元年(1570)の姉川合戦の際、 浅井朝倉軍が陣を敷いた所として知られています。

『信長公記』によれば、6月24日、越前の朝倉義景の一族である景健が兵8,000人、浅井長政が兵5,000人とあります。その数はどうであれ、こんな身近な所に・・・と、驚くばかりです。

17、8年前、この資料館建設の時点では、この大依山のことは話題になっていなかったと聞いています。この土地が文化スポーツゾーンとして選定されたのは、旧淺井町の中央に当たり最適地であったからで、この布陣とは全く関係なかったはずです。奇しき因縁と思わざるを得ません。

今、この山の砦跡などを保存するための「大依山陣の会」が組織され、その整備や保存が進められています。当館のごく近くから、登るための遊歩道が整備されました。

この山の尾根には、野瀬倉山古墳群があり、それらがこの時代に砦や出城に変化していったと考えられています。このような例は湖北地方に広く見られるようで、今後の研究が待たれるところです。

さて、「『浅井三代記』などによれば、浅井氏家臣の間で、織田信長軍によって包囲された横山城を救援するため、この大依山から姉川に進むべきか、あるいはそのまま小谷城へ撤退すべきかの議論があったようです。結局、28日未明に浅井・朝倉軍は南進し、世にいう姉川合戦が始まったのです。」と、姉川合戦再見実行委員会の立てられた看板に書かれています。
「相撲庭百姓中宛「浅井亮政書状」
「38.浅井さん、恥ずかしいよ!餅ノ井」
郷土学習館1階陳列ケースに、現在、相撲庭百姓中宛「浅井亮政書状」が展示されています。これは姉川の大井から取水して田畑を灌漑していた相撲庭村に対して、下流からの要望に対して、そのような慣行がないから許可しないと裁定した結果を伝達した文書です。
このように、淺井氏たち地方領主は、水利に関する争いの調停に大きな役割を果たしています。とりわけ、2代久政はこうした内政に優れていたと伝わっています。

中でも、浅井家の水利に関して語る際、特筆すべきは高時川の餅ノ井に関わる壮絶な権力関係です。

福井県境からの水を集める高時川は、伊香郡を経て浅井城下へ流れ下ります。領国経営が進み広大な水田が開発されるに従い、下流の水不足は深刻な課題となってきます。

そんな中、下流域に勃興した浅井家が上流域の水に目をつけるのは当然のことで、浅井長政の母である阿古御料が、高時川上流の用水を管理していた井口氏の娘であることも、用水問題に便宜を図らせるための方策であったと思われます。

その後、浅井家の勢力増大に伴い、誠に強引な方法で水をせしめようとします。我々、浅井郡住民からすれば、「なんと、浅井さんはやり過ぎ、えげつないなあ。」「上流の伊香郡の人にお詫びのしようもない。」と、思わせるよな手段を執ります。

それは、高時川の上流から「大井」(伊香郡の上6組、下6組の用水)「下井」(その下3組の用水)があって、最下流に「丁野井」(浅井郡小谷城下8ヶ村の用水)がありましたが、浅井久政は、何と、最下流の「丁野井」を「大井」、「下井」を飛び越して最上流へ持って行き「餅の井」を築いたのです。

「そんなのアリッ!」伊香郡の人だったら、誰でもそう思ったはずです。その後も、戦国時代が去り、江戸時代になり、明治になりましたが、この水利慣行が解消されることはなかったのです。

何と、すべてが解決したのは、浅井家滅亡から367年後、昭和15年になってからです。浅井郡側からすれば、その間、淺井氏の恩恵に浴し続けていたということにはなるのですが・・・。
「高時川頭首工」
「39.浅井氏「餅ノ井」二つの話]
強引なやり方で、「餅の井」が築かれた話の続きです。

「餅の井」が作られた経緯について、こんなむかし話が残っています。

浅井の殿様から、「丁野井」を最上流へ付けかえさせてくれ・・・と、頼まれた井口氏(弾正)は、ただでさえ日照り続きで田んぼがカラカラなのに、どうしょうかと悩みます。話を聞いた農民たちも大騒ぎをします。そこで、弾正は、浅井の殿様に諦めてもらおうと「綾千駄、餅千駄、綿千駄(千駄とは牛千頭に積んだ分)を片目の馬子に片目の牛で索いて来たら認めましょう。」という、絶対に出来ない無理な注文を付けたのです。
ところが、浅井郡中野村の長者が、ありったけの財産をはたいて、その品を届けてきたといいます。弾正も、農民たちも、この長者の必死の気持ちに負けて「丁野井」を最上流へ持ってくることを納得したといいます。

また、こうして最上流に井堰を新設したのですが、作り直しても作り直しても、なぜか水路に水が流れずたいへん困っていたところ、中野の長者の女「松ノ前」が、尊い人柱になって、ようやく取水出来るようになったと伝えられています。このことから、中野の長者を「せせらぎ(世々開)長者」と呼んで尊敬するとともに、餅千駄から餅ノ井と名ずけれらたといわれています。

この二つの話は、おそらく伊香郡側の人たちが、この不合理な水利慣行に納得できない気持ちを、なんとか晴らすためにみんなで創り出した物語ではないのかなあと思っています。