私的資料補説
「侍女の墓in長浜市北野町」
34.「三姉妹の野良着姿、見てみたい?」
大河ドラマでも、通説でも、小谷落城後、お市と江たち三姉妹は、嫁いできた際付き添ってきた藤掛永勝の先導で信長の陣に戻ったとされています。

その後、清洲とも岐阜ともいわれますが信長の元に帰り、しばらくの後、信長の弟信包の伊勢上野城へ移り、本能寺の変頃まで静かに四人で生活することになっています。

ところが、地元には、これと全く違う脱出劇が伝えられています。落城に際し、お市と三姉妹は侍女たちと、東麓の池奥集落へ下り、そこで百姓の着物に着替えて、次の北野集落へ逃げたといいます。

この北野への途中に乞食坂と呼ばれる坂が残っています。今では、使ってはいけない言葉ですが、野良着に着替え乞食のような服装だったので、こう呼ばれるというのです。

この北野には、そこまで付き従っていた侍女の内の一人が、それ以上は目立つからというのでしょうか、ここでとどまったといいます。その侍女の墓だといわれる五輪塔が五先賢の館(この地域の五人の先人を讃える資料館)の近くの水田に残っています。

お市と三姉妹は、ここから田川の土手伝いに敵の追っ手を避けながら、浅井長政の姉が庵主となっている平塚(長浜市平塚町)の実宰庵へたどり着いたといわれています。

上野樹里、水川あさみ、宮沢りえ、鈴木保奈美たちに、野良着を着せたら、どんな格好だったか見ものですけどね。

後は、次回のお楽しみに・・・。

補説 脱出時の三姉妹は、子役なんですね!ある方から、ご指摘いただいて初めて気づきました。
「実宰庵に匿われる三姉妹」
35.うまく隠れた?三姉妹
実宰庵(実西庵、実才庵とも)の開基は、昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)で、浅井長政の実の姉とも、義理の姉ともいわれています。

野良着を着た三姉妹たちは、この寺へやって来たのです。

この昌安見久尼は、女性ながら大きな人で、寺伝によると身長5尺8寸 (175Cm)体重28貫(105Kg)とあります。

そのため、見久尼の僧衣は普通の人の倍はあって、その衣の下へ三姉妹を匿ったと伝わっています。

郷土学習館2階の実宰庵ジオラマでは、この見久尼が三姉妹を匿うシーンを再現しています。企画した太田参事も、三姉妹を完全に隠すと意味が分からず、隠していないと見えてしまうという矛盾をどうするか、悩んだそうですが、三姉妹がそっと衣の下から覗いているという造りになっています。

この寺に五十石の寺領を安堵した秀吉の朱印状が存在するのも、実才庵の跡目について秀吉公の御意を得ているので望み通りにせよとの四奉行からの京極高次宛の文書が存するのも茶々の格別の配慮が見えて面白いと思います。

だから、多くの研究者のように三姉妹が隠れたと考えるのは、少々無理があると考えています。ジオラマ作製の意図と反しますが、男子の万福丸や万菊丸たちを一時的に隠したと考える方が自然ではないでしょうか。
「浅井三代記」
36.「浅井三代記」プロジェクト
展示替えで、今、郷土学習館1階のケースに「浅井三代記」全15巻が陳列されています。

元禄年間、1688年から1689年にかけて冨野治右衛門という江戸の住人によって執筆され木版印刷で刊行されたものです。

写真でも分かるように、各分冊ともかなりのページ数があり、文字もかなり細かく、全巻の総ページ数は一体どれくらいになるのでしょうか。すごいボリュームです。

内容は当然乍ら、浅井氏の台頭から信長に滅ぼされるまでの60年間余りの浅井家三代の歴史を記しています。当時、姉川合戦から115年、まだまだ記憶に新しい段階での作品ですが、かなりの部分が講談調に創作されているのでしょうか、歴史史料としての評価は低いとされています。

写真で開かれている部分は、姉川合戦に関するページです。登場人物も夥しい数で、時間の経過に伴い、心理面まで含め微に入り細に入り、極めて精細にドラマが展開して行きます。世間的に流布している浅井家の様々な物語は、この辺りを出典としているものが多いように思います。

何よりも気になるのは、この出版の企画をした人は、誰なのでしょうか。このプロジェクトは、当時としては、どのような意味があったのでしょうか。

これは、金儲けになったのでしょうか。企画する人、原稿を書く人、原版を書く人、彫る人、刷る人、製本する人、売る人など膨大な組織の必要な大事業です。また、途中で打ちきりには出来ない三代記で、木版、全十五巻といえば、売れ行きを先に心配することはなかったのでしょうか。

浅井家をテーマにすることが、当時の世相からして、ベストセラーになる確実な要素となったのでしょうか。浅井長政十六歳での初戦大勝のようなドラマチックな登場ぶりや、信長との関係、朝倉氏との潔い生き方、お市との愛、若すぎる死、娘たちの紡いだ華麗な血脈などが、編集会議で出版成功のポイントとなったのでしょうか。

昨日もお客様と話しておりましたら、そんなに売れませんよ、文字が読める人も少ないはずだし、誰か浅井家に繋がる人が祖先のことを誇るため、金に糸目をつけず出版したんでは・・・・・とのことでした。

でも、江戸の町民文化が花開いた元禄期、庶民文芸が盛んだったともいわれ、この程度の出版事業を可能にする素地があり、社会も成熟していたと考えるべきではないでしょうか。昭和元禄に負けないすごい時代だったんでしょう。

補記 この「浅井三代記」の復刻本が、長浜市小谷丁野町の木村重治さんの手により、最近出版されました。A5判ハードカバー、407ページ、当館でも一冊2,000円で販売しています。