私的資料補説
「姉川合戦シアター」
31.「三田村さんは、どうなった」

三田村に三田村さんが無くなるのは何時だったんでしょうか?
いなくなる」のか「姓が無くなる」のか、おそらく両方だったと思われます。

早くに何処かへ行った三田村さんもいれば、来襲を受けて逃れた三田村さんもいます。また、処刑された人の遺族もいたはずです。

浅井むかし話に従うと、話の成り行きで姉川合戦で三田村から朝倉軍が敗走した後、七十士の処刑があり、その直後・・・・・・・・となります。

しかし、小谷本城は、盤石の体制で厳存し、そこへ再起を期して立てこもるのは当然の成り行きで、この辺りの三田村一族が何処にも逃げ場がないのならともかく、みすみす敵の手に落ちるというのも、いささか気になるところです。

しかも、三田村左衛門は、小谷落城寸前(微妙な段階で寝返りますが)まで浅井家の重臣として活躍するので、その一族も多数従っていたのではないかと思われます。

姉川合戦後、この地域の支配関係が大きく変わったとは考えられないことは、この2ヶ月後、浅井長政が朝倉氏とともに大津へ出陣し京都にまで迫り信長を大慌てさせたことでも明白です。小谷城をカラにして、志賀の陣を戦うことが出来たのは、この三田村周辺の支配権は再び三田村氏の手に戻っていたと考えるべきです。

だったとすると、三田村から三田村姓が消えるのは、姉川合戦から暫くして再び信長がこの地に迫ったとき、また、秀吉が新たな経営を始めたときといえるでしょう。この場合も、三田村姓だった人は、姉川の北ということでしょうか、今も多い北川姓に代わったといわれています。

でも、むかし話はむかし話なんだから、そんな三年間ぐらい短縮しても何の問題もないわけで、こだわっている方が笑われそうですが・・・・・。

写真 三田村氏館跡の土塁 


「当館所蔵品」
32.「浅井さん八合枡善政物語」
ネットで「合と升」の関係をお尋ねの方もおられましたので、そんな時代なんだなあと・・・・・。

この地方では、各家庭に浅井マス(枡)と呼ばれる八合枡がありました。これは、小マス(枡)ともいわれ、かなり日常的に使われていました。

米を炊くときも、小マスで何杯などという会話があったように思います。

このマスが作られたのは、浅井家がこの地を治めていた頃、領内の農民の年貢負担を軽減するため、わざわざ一升マスの代用として作らせたといわれているものです。

年貢、20%の減免ということになります。
こんなこともあり、浅井の殿さんは領民思いの慈悲深い人というイメージが今も伝わっています。そんなことだから、いざという時、領民はすすんで浅井家の軍隊の一部として従軍し、勇敢に戦ったのだとも言い伝えられえいます。

これが「浅井マス善政物語」です。ところが、昔々、どこかで、この小さいマスを利用することにより、自らの領国の石高を多く見せるためだったという話を聞いたことがあります。そんな、見栄っ張りな浅井家では無いと信じたいのですが、こんな話お聞きになっておられる方がおられましたらお教えください。

終戦後の貧しい時代、葬儀の際、この地域には全戸に米を一升ずつ配るという風習がありました。そんなとき、家の経済に合わせ、十合の一升マスを使う人もいれば、八合マスを使う人もいるというように、選択することを互いに認め合うという共同体意識があったと母が語っていました。

淺井氏の善政が、形を変え終戦後までその役割を果たしていたという壮大なお話です。
33.「やっぱり古戦場!」
ボランティア仲間の北川勝弘さんが、今回長浜市三田町の史跡と暮らしをまとめた「三田村今昔見聞録」を上梓されました。

ハッとするほど美しい写真をふんだんに配した分かりやすい郷土読本となっています。

その中で、多々教えていただけることがありますが、特に印象的であったことは、各個人の家で祀っておられるお地蔵さんの多さです。

旧の三田町だけで、隣組で祀る地蔵尊が8カ所、個人の家で祀る地蔵尊が20カ所、地蔵尊、墓とされる石仏の総数は約360体という途方もない数になっています。

私どもの住んでいる町内では、大字、隣組合わせても、せいぜい4,5カ所といったところでしょうか。

北国脇往還も通っており行き倒れの人も多かったであろうと書かれていますが、やはり、何といっても、姉川合戦の主戦場であったことを抜きに考えることは出来ないと思います。世にいう大規模な合戦ではなかったとする当館ではありますが・・・。

開墾中、農作業中、造成工事中など、さまざまな段階で長い間にわたって発掘されたお地蔵さんが、大切にそれぞれのお宅で祀られているのです。

信仰心の篤さも含め、歴史の重さを感ぜずにはいられない地蔵尊群です。