私的資料補説
郷土学習館2F「小谷城脱出ジオラマ」
28.「小谷城脇門の扉論争」

あざい歴史の会のある方が、小谷城東麓の須賀谷区の老人からこの小谷城脇門の扉について、次のような話を聞いておかれます。

この須賀谷区は、再々このブログにも登場しているように、小谷城本丸、赤尾屋敷直下の集落で、あの片桐且元の屋敷もあり、父の墓もある由緒ある集落です。前述の「扉下げ渡され説」の那須佐平衛太邸も、この須 賀谷区にありました。

ところで、その話というのは、この扉は、小谷城の東麓の崖下に埋まっていたというものです。しかも、観音開きになっている2枚がそれぞれ別の場所から出てきたというのです。発掘した人も、それぞれ別の人だったといい、発掘された時は、かなり汚れた状態だったといいます。これが、「扉発掘説」です。

 落城から大正初期まで、およそ350年、作為的に埋めたのならいざ知らず、崖下へ投棄したような状態で、落ち葉や土が積もり埋まったにしては、このように完全な状態で発見されるものでしょうか。しかも、2枚とも、殆ど同じ状態で発見されるものでしょうか。よく、木簡や丸木舟が発掘されるようなことも聞きますが、水中の泥深く良い条件が整った場合であって、白蟻がすぐにでも付く地表近くで、2枚そろって・・・・・

どこか大学の先生も、檜材だから残ったのでしょうと語られたとの話もありますが、地元に遠慮して可笑しいですよとは言えなかったのかなと勘ぐったり、何となく腑に落ちない部分が残る「脇門扉論争」です。皆様も、是非実物をご覧いただきこの論争にピリオドを打っていただけると有り難いのですが。

どこかの神社に「下げ渡され」ていた扉が、廃仏毀釈、神道分離の頃に棄てられ(この頃、この地方でも随分たくさんの神社の統廃合が行われています。)、それが数十年後、大正初期に発見「発掘」されたが、それではあまりに芸がないので、短縮して「下げ渡され」説の説明番板がつけられたというストーリーでの和解案はいかがでしょうか。

写真 貧乳の拡大部分を、というご所望がありましたので・・・。冗談が分からないの!という声も聞こえますが
    
ブログの仲間からの要望でした。


人工衛星から見た湖北
29.「どこを通った?北之庄行き」

大河ドラマでは滅多にない現地撮影が、この小谷城で行われたことは、地元にとっては願ってもないことでした。

第1回で、小谷落城まで話が進むのに、時任三郎(長政)と鈴木保奈美(お市)、宮沢りえ(茶々)、水川あさみ(初)、上野樹里(江)の5人が小谷城へやってくる?この5人の揃い踏みとなると聞いて、驚きました。

一体どんなシーンが撮られるのか、想像も付きません。なぜって、小谷落城の際には、江はゼロ歳児の赤ちゃんで、上野樹里さんが来る必要がないのです。子役だけが来れば、充分落城できるはずです。

その後、分かってきたのは、第8話「初めての父」で柴田勝家の所へ向かう途中に小谷城に立ち寄り、父長政を偲ぶシーンがあるということでした。

なるほど、なかなかいい考えで、お市は、嫁いできた日のシーンと、落城シーンとの両方を撮影することにしたのでしょう。

ところで、この部分の歴史的な裏付けはあるのでしょうか。

ある日の太田さんの話の中に、【細川忠興軍功記】柴田殿ハ、岐阜にて御市さまと御祝言被相調、越前へ御同道被成、長浜へ御通可有処、長浜之仕形を被聞召付、伊吹山の東裏にへり道御座候を漸御痛候て、越前之北之庄へ下着被仕候、・・・・・・。の引用がありました。

これを純粋に読めば、長浜は通っていない、なら北国脇往還(途中に小谷城がある)を通ったかというと、そうでもないようです。伊吹山の東裏にへり道御座候を・・・と、ある以上、伊吹山の東なり裏道といえば、完全に小谷 城はルートから外れます。

でも、時代考証ではどうだったのでしょう。なんか、モゴモゴとされていたように思ったのは、私だけだったのでしょうか。

小谷城へ立ち寄るなら、お市亡き後三姉妹が北之庄から安土へ向かう途中でもよかったのではないかと、思ったりしています。

郷土学習館1階展示ケース
30.「三田村に三田村さんはいない」

姉川合戦の頃、三田村(現長浜市三田町)には、三田村左衛門尉国定が当主として居を構えていました。ところが、三田村氏は横山城を守っていたので、ここは家来やその家族などが守っていたはずです。勿論、女子どもは、どこかへ避難していたはずですが・・・。(例の古地図のように)

援軍として越前からやって来た朝倉軍の軍勢が大依山からここまで進軍し、を敷いたのです。おそらく、この村は、てんやわんやの大騒ぎだったと思います。

そして、合戦の結果は、ご承知の通りの敗北、浅井のむかし話には、悲しい物語がいくつか残されています。

たとえば、残っていた老人や子どもの避難を手伝うなど最後まで守っていた三田村氏一族七十人が捕らえられ、処刑されたといわれています。今も、七十士の墓と呼ばれる場所があります。

この際、生き残った三田村を名乗る武将、家来たち一族は、場合によっては秀吉側につくなり、この地域を追放 されたものと考えられます。勿論、この戦い前に寝返った三田村一族もいたはずです。現在展示中の史料は、亮政時代のものですが、「今回敵方へ寝返った者」として十二名の名がある中、三田村姓が七名もあるという激しいモノです。

後、ここを支配した秀吉が、かつて住んでいた三田村の百姓、町人を呼び戻し、再び村を経営したとされています。

その後、この三田村には現在に至るまで、三田村さんはいないのです。不思議なことに、隣の町には、三田さんがおられるのに、・・・。

全国の三田村さんが「三田村会」を組織し、集まりを持たれていると聞いたことがあります。俳優の三田村邦彦さんもメンバーとして参加されるとか・・・。

これとよく似たケースが、近隣にもかなり沢山見受けられます。野村に野村さんがいない、草野に草野さんがいない、高畑に高畑さんがいない、口分田に口分田さんがいない、伊吹に伊吹さんがいない、弓削に弓削さんがいない、益田に益田さんがいない、などなど。