私的資料補説
HP「江たち三姉妹とお市物語」
25.浮気をします
「HP」と、「ブログ」の違いも、はっきりしていないような状況でのスタートでした。

ホームページビルダー10では、その両方を兼ね備えたHPづくりが出来るそうですが、手元にあったのは、7でその機能はありません。

そこで、HP形式にし、資料館の改装された展示空間の紹介に重きを置くことにし,日々の動きについては、2〜3行のスポットニュースとして書き込むことにしました。

試行錯誤の上、次第に形が定まり現在、お見かけのような「江たち淺井三姉妹とお市物語」となりました。

ところが、世は「ブログ」時代、猫も杓子も「ブログ」づくりに励む時代になり、その「ブログ」ネットワーク社会も巨大になっています。

HPの場合、アクセス数はどこか強力なHPにリンクされているのと、いないのとでは大きな差があるようです。
あとは、こつこつと口コミで広げるしか方法がないと聞きました。

来館者や知り合いに、「HP紹介カード」を配ったり、会議でお願いしたり、はては市長さんにまでカードを渡したり、必死に売り込みをしましたが、今でも検索トップは合併前の「浅井歴史民俗資料館」で、月曜日は休み、とか古い内容のものがまかり通っているのです。

長浜城歴史博物館にリンクしてもらえるような願ってもない(願っても出来ないの間違いではありません。)話が降って湧いてきて、喜んだのですが、5月5日になってぬか喜び、無理との当然の連絡が入りました。

この日から、「HP」ちゃんとの交際は、そのまま進めるとして、悪いですが、「ブログ」ちゃんともつきあうことにしたのです。

「ブログ」の中身をどうするか、悩んだ末、HPの「思いつくままに」の文章を、「ブログ」の原稿に使うことにしました。当分の間は、HPでご覧いただいたものが、再びブログに採録されるだけということになりますが、いずれかの時点で同時に進行することになるはずです。

その後の交際の様子です。
「HP」時代、3月1日から5月7日まで、アクセス数1476(一日あたり22)
「ブログ」時代、5月3日から5月6日まで、アクセス数719(一日あたり144)
ブログ「江たち三姉妹とお市」
26.二番煎じにも福あり
HPの「思いつくままに」の記事を取り出し、ブログにそのまま書くことにしたのですが、当然、その後、分かったこと、お客様から教えてもらったこと、間違っていたことなどが出てきます。
さりげなく、その後・・・と書き足しておきました。

ある方と話している際、「最初のうちは、同じ内容で恥ずかしいんですが・・・。」と申しますと、よく読んでいただいている方で、「その後のこととか書いてあって、面白いですね・・・・・。」と言ってくださいました。

「ああ、なるほど、なるほど」と、その時、妙に納得しました。同じ記事を使うことで、ブログで読んでいただく方は、もし気の早い人だと、HPへ潜り込んで先に読んでしまって(そんな魅力ある中身でもないですが)新鮮味のないブログになることが気がかりでした。先に読まないで・・・と、警告しようかと思ったくらいです。

ところが、補説をつけることで、ちょっと味付けが出来、(という程でもないですが)じっと待っていただいているブログ読者の方への罪滅ぼしになるかなあ・・・と、思ったりしています。

逆に、HPだけを見ていただいている方にとっては、ブログの方も見ていただかないと、その先の展開がどうなっているか分からないということに・・・・・・・・・・・・・・・、これは、冗談です。そんなに、大事なことを、たくさん書き加えることはないですから、ご心配いただかなくて結構です。

とにかく、二番煎じも、まあまあ悪いことばっかりではないという・・・・・、あ・・そう、これも言い訳です。

この記事は、初めて補説不要となとなりました。どちらかといえば、ブログ用に書いたもので、同時展開ですから。



27.小谷城脇門の扉

郷土学習館2階の「小谷城脱出場面ジオラマ」には、作り物の書き割りの中に、本物の「脇門の扉」が使われています。

これは、戦後の町村合併前の旧田根村役場惣倉に残されてきた物です。旧田根村文化財保存会の記録では、小谷城東麓の須賀谷地区の那須佐平衛太氏宅に永く保存されてきた物と伝わっています。

その記録には、「信長のためにあえなく落城、焼け落ちた城楼の縁を示す唯一の物である。」「落城前に城楼改築がなされたおり、旧館の一部が須賀谷に譲与されたが、永い風雪のため館は朽ち、門扉だけが残ったものと思われる。」などと、あります。

この当時は、落城時炎上したと考えられており、それ以前の改築時に下げ渡されたとの判断に立っていますが、恐らく落城後、秀吉が入城し改修した際に譲り渡したものと考えられます。

大河ドラマ「江」小谷落城の最終シーンで、長政が三姉妹とお市を、「生きよ!」と、万感の思いを込めて送り出す場面がありました。もしかすると、その際にくぐった門、最後に閉じられた門扉と考えると、一度にこの門扉の・・・・・・・・・・・・・・。

なお、扉には鋼鉄製の半球状の釘隠がいくつも打ち付けられています。姫路城や彦根城などの城門の扉の釘隠は、はち切れそうな位の脹れ方ですが、ここのものは恥ずかしい位の貧乳です。 でも、遠慮することはありません、低い方が時代の古さを示すものだそうです。まさに、本物の証明といったところでしょうか。

ところが、困ったことにボランティアの中で、この扉の発見場所について大揉め(大揉みではありません。)なのです。それはまた、次回・・・・・。