阿閉氏についての一考察
中世の終わり16世紀末 近江、京極氏の被官であり後に浅井氏に従い滋賀県伊香郡高月町を領した(平成22年1月長浜市に合併)阿閉氏は、古代日本史で日本書紀に記された、四道将軍の派遣をはじめとする大和政権の進出、ならびに壬申の乱に大いに関わった氏族である阿閉氏の後裔である、として一考察を試みることにしました。
先史時代 朝鮮半島から日本に人々が渡来しますが、その道筋は北九州の島々を経て日本列島に到達したと考えられます。現在相島(福岡県)と呼ばれる島も行程の道中にあります。
この相島の「相」は「饗」の呼び方が変化したもので食をもてなす意味の文字から由来したものです。(阿恵島・吾瓮島とも記されています)
この島の海域は海流が複雑に流れ漁業を生業にするに適しておりその収穫は、食料・交換・献上に用いられたと考えます。
日本書紀に記されている神武東征のよう日本列島における西日本の勢力の移動の際、その島の人々は共に行動して糧食を補給しました。そして、狭い範囲で示されるヤマト、あるいは国としての大和の成立に携わった。その後は貴人に食事を饗えること、それを職掌にした、と推考します。
奈良時代になると、阿閉氏は伊賀一之宮 敢國神社の祭祀氏族となり、元明天皇の乳母は一族の女性から選ばれており、大化改新以降の壬申の乱の功臣が一族から多く輩出し、更に大和政権の地方進出のための糧食を補給した阿閉氏の「氏」としての成り立ちを
1・出自 2・系譜 3・阿倍氏との対比から、更に
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阿閉氏の変遷を1・日本書紀との関連 2・蘇我氏との関係 3・壬申の乱での役割からと
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阿閉氏の地理的背景を1・古代大和 2・古代道路 3・大和政権の進出の面から、ついで
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阿閉氏の現状について1・読み方 2・地名 3・文献 4・電話帳などの資料から考察します。また阿閉氏の発祥については原始朝鮮半島の影響が色濃いものであると推察するにいたりました。
阿閉氏についての一考察 本論をご披見ください
平成14年 8月17日
更新日
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阿閉 陽之助 copyright(C)
日本古代の氏族については‘古代氏族の性格と伝承 志田 諄一 雄山閣’に
「・・・氏が大和朝廷を構成する豪族の間に組織されたもの「・・・次に朝廷を構成する豪族が区別されたことが考えられる。のちの臣姓氏族がそれにあたる。そして次には朝廷の諸職掌を分担する豪族の区別がされる。・・・」とあります。また、
‘日本古代の氏の構造 義江 明子 吉川廣文館’には「・・・成立した氏集団は次第に本拠地の地名や朝廷における職掌名にちなむ集団の名称を定着させていく。およそある集団への個人の帰属は、社会的にはその集団名の使用によって明示されるのを原則とする。・・・」とあり
また、‘日本古代の氏族と天皇 直木 孝次郎 塙書房’には「・・・一般民衆の血縁的集団を指すことは少なく、朝廷に官吏として仕える有力者を中心とする血縁集団を意味することが多いようである。・・・」「・・・豪族としての「氏」においても、統合の原理として血縁の意識は重要な力をもっているが、その意識は非血縁者をも血縁を擬制して(事実上は血縁関係のないものを血縁者として)、「氏」の中にとりいれることによって、「氏」の勢力をひろげる、という形で具体化するこが多い。・・・」と述べられています。
古代の「食」と「政」について、インターネットのホームページに、
‘古代王権の食膳をめぐる膳氏の伝承―膳氏の歴史と『高橋氏文』 県立新潟女子短期大学研究紀要第32号 板垣俊一’で、次のように述べられています。
「日本の古代王権は、天皇を中心に多くの氏族によって構成されていた。・・‘義江 明子 日本古代の氏の構造 1986年 ’」
「膳臣の枝流高橋氏が王権祭祀新嘗祭等の神事供奉の行立の先後をめぐって安曇氏と争ったとき、朝廷の裁定を大きく左右したのは両氏の始祖伝承の内容であったと考えられる。」
「持統紀五年八月条の・・・記事を全体的に見ると、天皇の食膳への奉仕・軍事上の功績・外交上の活躍などが特色となっていて、これにより古代の膳氏は軍事や外交に活躍した有力氏族であったことが知れる。・・・」
また、(注12)に膳臣と阿閉臣との役割分担については、「膳臣が供膳によって天皇の側近に奉仕したと考えられるのに対していえば、阿閉氏は古く神をまつる饗宴の子とをもって奉仕したのでないか」(日野昭『日本古代氏族伝承の研究』三六二頁)との説もある。」とあります。
「・・・膳氏は上総・安房の東国と深い関係を持つが、これと対蹠的に安曇氏は九州。瀬戸内海などの西国を勢力範囲とする。・・・東西の代表的な「御食つ国」志摩・淡路それぞれに密接の氏族が祭祀と天皇の食膳に仕えたわけだが、とりわけ神事である新嘗祭に両氏が関わることは、大嘗祭に用いる新穀を出す悠紀・主基二国の卜定が東国・西国に分かってお行われたことと同様の神話的意味があったと考えられるのである。・・・」と述べられています。
そして大和が勢力を拡げるなか氏族のそれぞれがその必要とされる機能を分担して果たしたのです。考察を進めるなか、阿閉氏は「食」と「政」とに深い関係のあることが分かりました。
ここで、
『共食同體』と、いう言葉 つまり、 同じ物を一緒に食べること、そしてそれを続けることにより、身体的な體型、耐性なども同じになり、構成する社会も同一の更に大きい社会体制になる。”との発想を得るにいたりました。
大和の勢力が拡大し、それにともない御饗による供食がおこなわれ「政」と「食」が同化、つまり都から鄙へ、鄙から都へ食生活の拡張したのです。食文化である食材・調理が大和の勢力内に広く伝わったのです。
氏族社会において同じ氏族の人達が同じものを飲食することにより結束を固めることがおこなわれたのです。
地域社会が広がるにつれて指導的な集団が大きくなるとき新しく加わった人たちと連帯感をいう深めるためともに飲食し、そして新しく加わった人たちが大きい集団に酒食を供して、もてなしたのが「あえ」であり、その方法が「政」のに使われるようになったのです。
「あへ」(あえ)は(饗)であり、それは「もてなし」「饗応」のことであります。また(饗応)は「酒食を供してもてなすこと」であります。
たとえば
○日本書紀には景行天皇53年10月条 「・・・膳氏の先祖で、名は磐鹿六雁が蒲の葉をとって襷にかけ、蛤を膾に造ってたてまつった。・・・」‘全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷 孟 講談社’とあります。ここで、磐鹿六雁命は孝元天皇<阿閉氏の租であります。>の子孫で大稲腰命の子 膳臣さらに高橋氏の租であります。また
○播磨國風土記にも、「・・・景行天皇が印南別媛を妻とするために賀古・印南郡の各所を訪ねた物語と関連づけたのです。・・・ 阿閇津に至り御饗を供進す。故に阿閇村といふ。・・・賀胡郡の阿閇津浜の縁起には、神功皇后が鹿児浜付近で大神に魚の饗を捧げ、津守の宿禰の遠祖がこれに奉仕したため、「阿閇浜」と名づけたと記します。・・・」|広報 はりま|より抜粋
そしてさらに、神を祀ることから、さらに進んで神と共に食べること(共食の狭義には神人共食・神と人とが共に飲食をすること)が儀式化し、その神の後裔とされる天皇た仕えることの歴史的な意味付けがされます。
伊弉諾命一|一天照大神
|一月読命
伊弉冉命―|一素戔鳴尊―宇迦魂神 ウカノミタマノカミ・あるいは。保食神(日本書紀)・ウケモチノカミとも表されます。神と「食」の謂われはこうして表されます。
○弥生以降、古代における蛋白源は魚介類と考えるのですが「阿閉氏」の出自に関わる「阿閉島」はその一大供給地であり`古代王権の食膳’に御饗えることを職掌としたことによる名付けられていたと考えます。
神名にある「ウカ」「ウケ」は食に関係する古語であり、「うけ」を神名にもつ豊受神を祭神とする稲荷社は大和の勢力の及ぶ全国的に分布しています。
○稲荷信仰については,「いなりしんこう 稲荷信仰「 ・・・こうした農耕的な性格から、稲荷神を宇迦之御魂)うかのみたまー倉稲魂)神にあて、また大宜都比売(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、御饌神(みけつかみ)もしくは、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)、宇迦売神(うかめかみ)などとも同神と説かれるようになった。」・・・」‘世界大百科事典 2 堀 一郎 平凡社’また
○「うけもちのかみ 保食神 《日本書紀》に見える~で、《古事記》のオオゲツヒメノカミと同一神であろう。<う>は美称、<け>は飲食物一般の義。食糧いっさいの生産にあずかる神、また、その力の神格化された神・・・」‘世界大百科事典 3 安津 素彦 平凡社’と説明されています。
現在においても「共食」は重要な儀式とされており、各国間の外交親密を計るため酒食を共にしたり、また晩餐会・会社内での懇親会の酒食も同じものと考えます。
さらに、外国からの伝来したラーメン・カレーの味が日本化されるのも、日本の鮨のカルフォルニア巻への変身や豆腐料理の外国での人気など食の拡張などにより世界の食文化による一体化の現象は明らかです。
論題としています『阿閉氏についての一考察』の構成から滋賀県の湖北における「食」に対する心性と「政」の関係を見てみますと、四道将軍の一人、大彦命が大和の拡大のために越へ向かう途中の近江の国にこそ、阿閉氏に因む神社があるのです。
滋賀県長浜市高月町西阿閉には、意波閇神社(おわいじんじゃ)祭神は、宇迦魂神(ウカノミタマノカミ)が、そして甘櫟前神社(いちいのさきじんじゃ)アマガミの社とも呼ばれています。また社名の一部櫟は舟材にも用いられ安曇氏と深い関係があるといわれています)祭神は、米餅眷大使主命(モチヘキオホキミノミコト・タガネツキノオオオミ)であり、「米餅」は(たかね・たがね)ともよまれますが、餅をつくるときの粢(しとぎ)のことであるともいわれています。いずれも「食」に関係する神社なのです。
両社が奉斎されている滋賀県の湖北は、「食」と共に政治体制が大和と一体となった所であると思考します。
歴史の事実を知ろうとするなかで、考古学上の新しい発見は、発見された時代での条件などによる制約の影響により、事実を誤認することもあります。また、その際の参考文献の誤用もあります。
考察するなかで、我田引水の論理の矛盾・飛躍果ての結論の誘引は厳に慎むものと自戒します。